退職後
(その6)

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2022.9.3


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退職その後(その1)
退職その後(その2)
退職その後(その3)
退職その後(その4)
退職その後(その5)

  
     
=退職直後
=退職一年目・母のこと
=短歌
=愛犬
=健康のためなら……





バレーボール



部活動指導
〜在職中〜

 在職中の部活動として「女子バレーボール部」の主顧問を担ったのは2校目、阿須那中学校(4年間)でした。以後、頓原中学校(7年間)⇒吉田中学校(主顧問は2年間余)と関わってきました。

 この間、大小含めて「優勝」の感激は30数回を数えます。特に頓原中時代、飯石郡大会は7年連続優勝(ほぼぶっちぎり)、県総体は最高でベスト4でしたが概ねベスト8以上の成績を取り続けました。そして、それ以上に挫折や敗北の場面も多々浮かんで出来ます。

 この13年間余、まさに怒濤のような放課後を過ごし、大波の如く大会を乗り越えてきました。今振り返って、どのような言葉で表現出来るのか? ……充実・苦痛・感動・爽快・感激・興奮・挫折・落胆・辛抱・後悔・希望・興奮・焦り・希望・……。すべて包括したようなダイナミックな感情が湧いてきます。

 総じて、授業や学級経営などとは全く違った、大きな負担感が思い起こされます。正直、部活動から解放された時の突き上げるような喜びは、今も心に残っています。

 教員の負担軽減で現在、部活動指導に視点が当たって改革がなされようとしています。生徒の立場に立ったとき、はたして解決策が上手く機能するのか? 疑問は尽きません。でも、教員の負担軽減を鑑みるとき、ぜひともクリアーすべき難題だと思います。

 ただし、部活動指導に心血を注ぎ、生き甲斐を感じておられる先生も数多くおられます。こういう先生には、今以上にしっかりと報酬を準備すべきです。

 ちなみに、私が部活動顧問をしている時期は、部活動に対する報酬は皆無でした。当時は「そうしたものだ」ぐらいにしか思っていませんでした。 ⇒私の場合、部活動報酬は一銭ももらっていません。が、退職後、その代わりに「公的年金」を頂いていると受け止めています。

 確か(不明)、平成10年頃から部活動手当「土日曜4時間以上=1,200円」が支払われるようになったと記憶しています。その後、額が増えて 3,000円となり、平成31年から 3,600円になりました。 ……それでも、1時間あたり900円ですから、学生のバイト並みですね。

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PTAバレー
〜在職中〜

 平成4年度、学校現場を離れると同時に長男(小6)が通う来島小学校「PTA会長」を担いました。同時に、PTAバレーとの関わりが生じました。翌年度は「保体部長」、併せて監督をする流れとなりました。

 下の一覧表の通りで、来島小4年間 ⇒赤来中3年間 ⇒赤名小3年間 ⇒小田小3年間 ⇒赤来中2年間、合計15年間(監督は14年間)関わってきました。

 これと重なるように、平成8年度からは「スポ小バレー」監督を担いましたので、重なりのある11年間は心身ともに大きな負担感を抱えての教員生活となりました。

 特に「赤名小PTAバレー」は選手も充実、郡大会優勝を狙っての練習(シーズン中は週2回)でしたので、ストレスを抱えての練習でした。強豪:頓原中を破って優勝した年もありました。

 逆に「小田小PTAバレー(勤務校)」は経験者がたった2名。バレーボールを楽しむ、楽しい楽しい雰囲気で満ち溢れていました(=これこそ、PTAバレーの原点)。

 振り返って、夜中に練習に出かける負担感はありましたが、お母さん方と苦楽をともにし、今となっては自分にとって「生涯の宝」となっています。感謝の気持ちでいっぱいです。

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スポ小バレー
在職中〜退職後

 平成8年度初め、(出雲教育事務所から)地元の赤来中に教頭として赴任しました。

 同時に依頼を受けたのが、スポ小バレーの指導者です。地域の心ある保護者から、熱心な説得を受けました。

 「毎月2回、土曜日が休みになっている。男の子は少年野球があるが、女の子は課外活動が何もない。そこで、土曜日を有意義に過ごさせるためにスポ小バレーを立ち上げたい。ついては、指導者をお願いしたい。」

平成 4年9月から、毎月第2土曜日が休業日。
平成 7年4月から、第2・第4土曜日が休業日。


 練習日は毎週土曜日9時〜12時。小学校4年生以上の希望者が参加するとのこと。断る理由は何もありません。それどころか、実に説得力のある地域貢献の話です。二つ返事で引き受けました。

 旧赤来町内4つの小学校から団員を募りました。どの学年も8割〜9割(学年十数人)が参加しました。発足当初は保護者も一緒に参加される方が多く、親子パス練習でもしようものなら、来島小学校体育館(バレーコート2面)がはち切れんばかりに親子で埋まりました。

 発足当初は大会もほとんどなく、確か7月末まではたんたんと練習が続きました。しかし初心者ばかりですから、最初の大会参加(成績)はさんざんだったことを覚えています。当時は確か、年間3回〜4回しか大会がありませんでした。

 練習方法は人数が多いこともあって「学年別」でした。保護者が交替で球拾い・練習補助に入ってくださったこともあって、初心者(4年生)から主役のような充実した練習が出来ました。

 そのこともあってか、新人戦(5年生の晩秋)では雲南大会で優勝するなど、たった週1回(他チームの多くは週3回〜5回)でも成果を上げていました。

 また、赤来中学校に進学してからは指導者に恵まれたこともあって、県総体ベスト4など、大きく羽ばたいてくれる時期もありました。

 一方では困った事態も生じました。なにせ学年十数人です。ベンチに入れない子も出てきます。大会もどんどん増えてきて、ほとんど毎月何らかの大会に参加という事態に発展しました。ベンチ入りの選手を交代しながら、何とか凌いできました。

 ただ、12人もベンチに入っています。試合の進行状況(接戦)によっては、選手交代がままならないこともあります。 ……このことを巡って、保護者から苦情を言われて困惑したこともありました。

 そうこうするうちに選手・保護者から「勝ちたい」「勝たせたい」という声が上がるようになりました。心情的に、それは理解出来ます。

 結局、週1回の練習が週2回になりました。ただ、他チームとの比較で練習不足はいかんともしがたいものがあります。新人戦ではまずまずでも、6年生になってからは、なかなか上位に入ることはままなりませんでした。

 結果、「勝つための練習」「厳しい練習」に次第にシフト、……。発足当初の趣旨「週休土曜日を充実させる」が置き去りになり勝ちになっていきました。

 タイミング良く? 平成20年頃、頓原中時代の教え子(Yさん:県総体でベスト4に入った選手の一人)が、指導者に加わってくれました。これがまた指導熱心な上に、指導が上手!

 ⇒ ほどなくして、5・6年生担当を彼女に譲って、私は一番下の学年(入団人数がだんだん減って、とうとう3年生まで下げていました)3・4年生を担当することになりました。(その後は入団が学年3人〜4人に! ⇒入団学年は2年生まで下げました。)

 間もなく練習日も上学年は週3日(低学年は土曜日のみ)となり、上学年は本格的な練習が始まりました。これはYさんと団員・保護者との合意でそうなったことです。それはそれで意味があります。

 が、私は他に多忙なことも漸増したり、体力・精神的に限界を感じたりして、平成29年3月をもって引退という運びとなりました。実に21年間もスポ小バレーに関わりました。

 振り返って、スポ小バレーに関わることが出来たことは、私の人生を振り返るとき、実に大きな「心の糧」を得たと感謝しています。

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部外部指導者
(主顧問として)

〜退職後〜

 スポ小バレーに関わっている最中の出来事です。平成27年4月、赤来中学校のバレー部顧問の先生が倒れ、緊急入院されました。

 校内に替わりの指導者がいないということで、時のA教育長は外部指導者を捜しておられました。けっきょく万策尽きて、私に白羽の矢が当たりました。教育委員でもあるので、断ることは出来ません。

 5月から連日、放課後は赤来中に通う身となりました。この間、スポ小バレーの指導者は他の方に依頼しました。

 相手は中学生です。ほとんど「勝つことを目標(目的)」にしています。スポ小バレー指導とは、質も量もぜんぜん違います。このチームは、前年秋の雲南地区大会「新人戦」ではベスト4だったとのこと。

 確かに選手は揃っていました。スポ小バレー時代に教えた生徒たちでもあります。身を粉にして、ガンガン指導に励みました。有り難いことに昔取った杵柄、体は付いてきてくれました。

 練習試合を通じて、優勝がねらえる感触を得ました。張り切って大会に臨みました。が、残念。練習試合では勝ち越した相手に、準決勝で敗れてしまいました。それも、持てる力の100%を発揮したとは、とても言えない内容でした。私の指導力の限界を感じた、大きな出来事となりました。

 その後、顧問の先生が復帰された夏休み中期まで、ほとんど連日、赤来中学校体育館に通いました。正直言って65歳という年齢を考えたら、よくぞ頑張ったと自分を褒めてやりたい半年間ではありました。

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外部指導者
(指導補助として)

〜退職後〜

 令和3年4月。こともあろうに、隣町のO中学校から「外部指導者」の声がかかりました。校長先生が自宅まで依頼に来られました。むろん年齢的にも、要約学習など出かけることを考えても物理的に難しい話です。丁重にお断りしました。

 が、その後も2度、依頼にやってこられました。「週1日でいい」とのことでしたので、その熱意に負けて? 受けることになりました。

 出かけてみると、外部指導者はもう一人(週2日)水・金に出かけておられました。その上、部活動顧問の先生が2人、基本的に常時、指導に出ておられました。しかも、そのうちお一人はバレーの部活動経験者です。「あれぇ〜〜〜?」という疑問を抱きました。

 その後、疑問が解けました。

 令和5年4月から、3カ年かけて「土日曜日の部活動は外部指導者に委託し、教員の負担軽減につなげる」。その後は、「部活動は完全に地域に委ねる」という文科省の基本的な計画があるとのこと。

 その試行的な市町として、島根県では浜田市・雲南市・美郷町が指定されているとのことでした。


 私が部活動補助指導に入るのは、基本的に「火曜日」。これが難しい場合は「木曜日」と決まりました。私はあくまでも顧問の先生の補助的な立場です。練習計画に基づいて、指示されたことを行いました。

 外部指導者がスタートしたとき、私はおん年 70歳。まさかまさか、こんな運命に出合おうとは予想だにしていませんでした。幸いなことに、日ごろのランニングが効いてか、体力的には何ら問題がありません。

 ただし、退職の年に突き指をした「右手小指(変形)」が古傷です。バンバン ボールを打った翌日は、その小指がうずきます。これはスポ小バレーの時も同じです。

 ところで、部活動外部委託の話は、今後どうなっていくのでしょうか?

 都市部はスポーツクラブもあるし、指導者も見つかりやすいと思います。が、山間部は状況が違います。実際にO中学校では、外部指導者を捜しに探して、やむなく私に声がかかったわけです。基本的に難しいと思います。

 小学校(野球・バレーなど)も、もともとは教員が指導をしていました。今や地域の人が面倒をみておられます。実際に、私もスポ小バレーの指導に携わってきました。

 だから、中学校でも実現出来るはずだ。 ……しかし、ことはそう簡単ではありません。小学生と中学生とでは、体力的・技術的に段違いです。いろんな方に聞いたところでは、そのことが大きな理由で、中学校の指導は躊躇しておられます。

 O中学校の関係では、教育委員会が「検討委員会」を開いてきておられます。

 これまでの結論としては、山間部では実現が難しい。解決策としては、「スクールサポーターなどとして、日々生徒の活動に関わるとともに、連日の部活動に参加する。その人が土日曜・祭日に部員の指導を行う。」という方向性が示されています。 ……まだ中間段階です。どのような結論になるのかは不明です。

 いずれにしても、生徒(部員)にとっては、本当に困った現実が突きつけられようとしています。

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バレーボールとの関わり
〜在任中〜

年度
(平成)
勤務 PTAバレー
所属
スポ小
バレー
備  考
4年度 出雲
教育事務所
来島小 来島小PTA会長
PTAバレーとの関わりスタート
5年度 来島小PTA「保体部長」
PTAバレー監督のスタート
 
  
……以後、14年間監督
6年度
7年度
8年度 赤来中 赤来中 1年目 スポ小バレー発足(毎週土曜日練習)
スポ小バレーコーチのスタート
    ……以後、平成29年3月まで
      21年間指導者

9年度
10年度 君谷小 この年度で末っ子が赤来中卒業
11年度 赤名小 (〜13年度:シーズン中は週2回練習)
12年度 飯石郡PTAバレー優勝
13年度
14年度 小田小 小田小
15年度
16年度 飯石郡PTAバレー大会終了
17年度 赤来中 赤来中 10 17.1.1 町村合併(飯南町発足)
18年度 11 飯南町PTAバレー大会終了
PTAバレー監督の終了
19年度 12
20年度 13
21年度 14
22年度 15 平成23年3月=定年退職
H29.3まで
21年間