退職後
(その1)

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2022.7.30


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平成23年3月31日
赤来中学校を最後に
教員生活にピリオドを打ちました。
その後
過ぎ去ってしまえば
あっけなく時は流れ
退職後12年目を歩んでいる私です。

こういう時期にあたり
この間の来し方行く末について
思いめぐらそうと考えました。

今回は
その第一回目とします。
(何回続くか不明)






退職翌日の朝


 私は「学校大好き人間」の典型でしたから、この日(退職翌日)を迎えることが怖い気がしていました。

 3月31日24時までは、勤務校の責任者とまわりの人から教えられてきましたので、午前0時まで寝ないで過ごしました。私の中では、何とはなしに「大晦日⇒元旦」の切り替えの雰囲気が漂っていました。

 深夜の緊急電話もなく、午前0時を迎えました。すぐに床に着きました。 ……予想に反して、すぐに眠りに落ちました(もともと寝付きはよいタイプ)。そして、ぐっすりと眠りました。

 翌朝、目覚めるとすぐに、自分の置かれている立ち位置を自覚しました。ところが予想に反して、「やったぁー!」と布団の中で叫んで、両手を万歳しました。寂しく肩を落として朝を迎えると予想していた私です。しかし、実際には「校長」という重荷が取れて、まずはその解放感を全身で味わった私です。

 平成23年4月1日(金曜日)、平日なのに8時を過ぎても普段着のままです。学校へ行く(出勤する)必要がありません。解放されたのです。 ……いや、次第に「社会から取り残された寂しい心情」がふつふつと湧いてきました。

 朝食後、まずは新聞を開きました。私の楽しみの日課の一つです。しかし、集中して文章が読めない自分がいました。読みながらも、ふと「自分は社会から必要ない人間」になったんだという、疎外感・孤独感が頭を過ぎりました。

 起床したときとは、ぜんぜん違った感覚です。その後の記憶は、今は全て残っていません。たぶん、あれやこれや所在のない時間を過ごしたんだと思います。

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退職後の仕事


 退職したら飯南高校「地域教育コーディネーター」という役職を担うことになっていました。

 この年の2月初旬だったと思います。当時の教育長さんから「退職後はどのように考えているか?」と尋ねられました。唐突だったこともあって、正直に「がむしゃらに突っ走ってきたので、とりあえずはひと息つきたいです。」と答えました。

 あとで聞いたことですが、町教委付きの指導主事を考えておられたようです。もし、退職直後にその道に進んでいたら、今とは全く違った世界が展開していたかも知れません。

 その後、教育長さんから「地域教育コーディネーター」を提案されました。地元の中学校卒業生が減ってきていることもあって、飯南高校は当時、生徒募集を町外にも求めるという方向性が打ち出されていました。2学級維持が飯南高校の魅力を維持するためのゼッタイ条件だったのです。

 この「地域教育コーディネーター」は新設、生徒募集の任を担うと説明されました。何と、勤務は週3日。しかも、午前中4時間勤務。 ……昔で言えば、土曜日と日曜日が次々やってくるような印象です。こんな虫のいい条件で退職後を過ごされてもらえる、その教育長さんの配慮? に、大感激。その場で受諾を即答しました。

 任務については一抹の不安がありました。が、当時の飯南高校の校長先生とは「中高一貫教育」の関係で近しい付き合いがあり、気心が通じていました。

 ただ、この任務がスタートするのは6月と知らされていました。2ヶ月間は、全くの「無職」として、その生活を満喫(?)出来る環境に置かれました。

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野菜づくり


 退職後、新たに始めたいと思っていたことがあります。退職教員の多くがそうされると聞いていた「野菜づくり」です。我が家は農家です。

 といっても、父が他界した(平成15年)時から米作りは地域の人にお願いし、全てを任せてきています。農機具類は、母が即時に農機具店へ中古品として売りました。米作りはやろうにも出来ない環境にありました。

 母はその後、野菜づくりは熱心にやり続けていました。そこで、母を「先生」に見習いをするところから始める心づもりでいました。野菜づくりの本も3冊購入し、退職前から読み始めてもいました。

 退職前に母にそのことを言うと、「いいで……。」というひと言も得ていました。退職早々に声がかかったと記憶しています。まずは耕耘機で畑を耕す作業です。農業は基本的にやっていなかった私ですが、こういう仕事は母から頼まれてやってきていました。

 問題は「種まき」「苗植え」「施肥」「消毒」「管理」「収穫」など、野菜づくりの一連の農作業とツボどころのマスターです。しかし、「種まきの時は必ず声をかけて!」と頼んでおいたのに、農作業のポイントポイントでは、私は除外され続けました。

 託されたのは除草作業と小間使い(肥料やり・水やりなど)が、思い出したようにあるのみです。不満に思いつつ、親しい人に訴えました。すると返ってきた答え(アドバイス)が……

 「野菜づくりは、お母さんの老後の生き甲斐だ。それを邪魔されたくないんだよ。言われたことだけやるのが親孝行というものだ。」

 これを機に、自ら主体的に自立する「野菜づくり」は気力が失せました。諦めました。そして、あれこれと多忙になったこともあって、(退職4年後)母が施設に入って以降も、野菜づくりとは無縁に過ごしている私です。

 ちなみに、母は平成27年5月、脳出血で倒れて救急車。一ヶ月余り意識不明でしたが、(医師が言うには)奇跡的に意識を取り戻しました。が、以前の目力のある母には戻ることもなく、寝たきりだったこともあって歩行は全く不可能。普通の会話は全く叶いません。

 意識が戻ると、医師のアドバイス(このままだと栄養失調で衰弱死する)もあって、栄養補給は中心静脈から「胃ろう」に変更しました。

 その後は「要介護4」の認定を受け、療養生活に入りました。翌平成28年4月、申請を出して8ヶ月後、特別養護老人ホーム「愛寿園」への入所が決まり、現在に至っています。コロナ禍以降、一気に意識レベルが低下して、今では会話どころか、息子の認識もありません……。

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読書


 予想していた日常とはいえ「毎日サンデー」、退職された誰かが言っておられたセリフです。このフリータイムをどのように使ったか?

 私の場合、圧倒的に「読書」でした。現役時代は、目の前の「やるべき事」を片づけるが早いか、新たな「やるべき事」が湧いて出るのが早いか? 片づけても片づけても降って湧いたように、常に「仕事」が目の前に出現し続けていました。ゆっくりと本を読む時間が持てなかったというのが現実です。

 現役時代、机上には常に読みたい本、読むべき本が積み上げてありました。部屋の簡易本箱にも、読まれるのを待っている本がぎっしり入っていました。 ……その山が、退職と同時に少しずつ崩れていきました。一日2冊〜4冊、猛烈な勢いで本を読みました。

 本を読みあさりながら「ああ、自分は読書が大好きなんだ。」と新たに発見したように自覚しました。

 本の種類は雑多です。政治・経済・歴史・健康・教育・雑学、……、むろん小説(特に松本清張・藤沢周平・山本周五郎・司馬遼太郎など)も読みあさりました。

 小説類は読み捨てですが、実用書は図式として記録し、記憶のカプセルとして残し続けています。

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読書の記録:例
(図式)