退職後
(その2)

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2022.8.6


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退職その後(その1)


出勤は週3日


 6月から新たな仕事が始まりました。退職以降、毎日フリータイムを過ごしていた私にとって、緊張感の日を迎えました。ただし、出勤日は基本的に「月」「水」「金」の午前中(8:30〜12:30)という実に恵まれた条件、手当は月額約8万円でした。

 職名は「地域教育コーディネーター」という新たに設けられた役職、出勤する場所は飯南高校です。与えられた職務は「飯南高校への入学生を増やす」こと。

 平成13年度、飯南地域「中高一貫教育」が始まったこともあって、町内の中学校2校(赤来中・頓原中)からの入学生は、かつての約6割から、約8割に増えていました。

 ところが、飯南高校の定員が80名という中にあって、町内中学校の卒業生が減少傾向にありました。将来的には両中学校合わせて30名〜40名程度に減少。年度によっては30名以下もあります。島根県教委の方針として、2年連続して定員の7割を割ると、廃校もしくは分校ーーーーという方針が打ち出されていました。ということは、町内中学生入学だけでは、全然足りません。

※ この頃、町外生の入学は毎年10人台。

※ 飯南高校は山間地域の高校ということで、算定に当たっては定員80名ではなく「60名」で計算。
⇒ したがって、60名× 0.7 =42名


 この現実を重く見た飯南町では、教育委員会を主体として「飯南高校キラリ! ドリームアップ思援会議」が、平成22年度から2年計画で始動していました。その中途年度に、私が採用されたということです。

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飯南高校に生徒を呼び込む!


 さっそく私は、この「飯南高校キラリ! ドリームアップ思援会議」の事務局を担いました。同時に、ほぼ休止状況にあった「飯南高校ホームページ」を担当しました。

 校長室に招かれ、O校長先生の構想をお聞きしたり、意見を求められたりすることが、度々ありました。この校長先生の発想力が実に多彩で、度肝を抜かれるように豊かなのです。いつも驚かされていました。そのたびに、それらの構想を図式化され、会議に提出して先導的な役割を演じ続けられました。実現した構想が幾つもあります。

 「飯南高校キラリ! ドリームアップ思援会議」で打ち出された方針は、県内外でも先導的な事が幾つもありました。例えば、

 公営塾(開校)……高校生=5千円/月
 寮費=無料
 町運営スクールバス購入(登下校・部活動)
 登下校利用町営バス=無料
 HPによるリアルタイムの情報発信
 生徒主体のオープンハイスクール開催
 生徒作成による魅力ある学校案内作成
 生徒企画運営による中学生向け体験ツアー


 校長先生に同伴して、出雲市・雲南市などの中学校へ生徒募集に歩きました。たいがいの中学校の校長先生とは面識がありました。姉妹都市縁組みをしている伊丹市へも生徒募集(伊丹市教育委員会訪問)に行き、プレゼンをしました。

 ……振り返り見て、たいした役割を演じたとはお世辞にも言えませんが、私がこの役を退いた(翌平成24年3月)後は、飯南町職員が飯南高校に常駐してコーディネーター役を担い、着実に実績を上げ続けています。そして、飯南高校の魅力化と併せて、ついに平成26年度、町内生より町外生が多いという実績を上げました。現在(令和4年度)は、町外生が全校生徒の64%を占めています。(=全校生徒は約180名)

 なんと! 今夏、
島根県高校野球大会で「準優勝」!

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飯南高校HP
飯南高校野球部







飯南町教育委員会
教育委員に


 退職した翌年、平成24年2月、教育委員に任命されました。すると、町議会議員をしていた同級生から「教育委員は町職員を兼ねることが出来ない」ということを聞かされました。

 私の気持ちとしては、一年間という契約で飯南高校に勤務しているのに、中途で投げ出す気持ちにはなれないので、校長先生に「無償で3月末まで任務を全うしたい」と伝えました。心底、そういう気持ちで通いました。が、確か校長先生の配慮で「町費」以外から手当が出たと記憶しています。

 さて、新しく担うことになった「教育委員」です。現役時代は、ときどき学校訪問を受けていましたので、教育委員の立ち位置についてはうすぼんやりと認識はしていました。しかし、実際的にはよく分かっていないので、いろいろとネットで調べたり、前任の方に役職について尋ねたりしました。

 常勤ではありませんから、気持ちの上では何とはなくうすぼんやりとした存在感です。11年目を迎えている今も、自分は飯南町の学校教育・社会教育に貢献しているという、確かな実感がないのが正直なところです。

 毎月一回の定例「教育委員会」会議
 年2回(春と秋)学校訪問
 年1〜2回 総合教育会議への参加
 島根県教育委員連合会への参加
 学校行事(入学式・卒業式・運動会など)への参列
 年1回 先進地への視察

 平成25年2月から「教育委員長」、新教育委員会制度がスタートした平成29年2月から「教育長職務代理」を務めている関係で、さまざまな教育委員会関係会議の会長(とりまとめ役)を担ってきました。中国地区教育委員連合会で「中高一貫教育」のプレゼンをしました。教員採用試験(2次試験)のお手伝いもしました。 ……貴重な体験をさせてもらっていると、感謝しております。

 現在3期目の3年目です。一年半後には、進退を考える時期が来ます。

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退職してからの経歴
〜令和4年4月現在〜

年齢 記事 備考
R4.4 現在
平成 23 60 退      職
平成 23 60 島根県立飯南高校  地域教育コーディネーター 1年間
24 61 飯南町教育委員会  教育委員(H24.2〜) 11年目
25 62 飯南町教育委員会  教育委員長(H25.2〜〜H29.2) 4年間
28 65 飯南町立赤名保育所 所長(H28.4〜R2.3) 4年間
29 66 飯南町教育委員会  教育長職務代理(H29.2〜) 5年目
地域教育コーディネーター =飯南高校の生徒募集業務






母のこと


 退職した年、母は83歳。長年の農作業がたたって、左膝を患っていました。だんだん歩くことが無くなる ⇒だんだん筋力が弱る ⇒さらに歩くことが億劫になる。……悪循環の月日を過ごしていました。

 退職してからは毎週2回、三次市(我が家から30Km)の整形外科医院へ連れて行きました。リハビリのためです。強制的に医学的に筋肉の鍛錬をするためです。2ヶ月に一回程度は、ヒアルロンサンの注射をしてもらいました。

 大儀な日もあるようでしたが、基本的には気分転換(帰路の買い物、食事など)を兼ねて、喜んで出かけていました。病院での滞在時間は概ね、9時から11時半です。 ……この時間帯、私はマック・ジョイフル・ミスタードーナツで、もっぱら読書三昧。自分なりに充実した時間を過ごしていました。

 近く(4Km)にある温泉「加田の湯」へ週1回〜2回、送迎をしました。当時は温泉(サウナ)に全く関心がなかったので、ただ送迎するだけの私でした。 ……今にして思えば、迂闊でした。

 そして、運命の平成27年5月初旬を迎えました。朝食の時間になっても部屋から出てこないので、部屋まで迎えに行きました。すると、母は壁に背もたれをして目がうつろです!

 「どうした? しわい?」と尋ねると、「背戸(家の後ろ)でゴミを燃やした」と呟くように言います。慌てて家の裏手を見に行きました。何事もなく静まりかえっています。次に母の元へとって返すと、目が変です!

 この後、救急車騒ぎとなりました。即、松江の弟も呼びました。

 待つ間、命のことを真剣に考えました。診察の結果が伝えられました。「脳出血」とのこと。診察をした医師は図を書いて、丁寧に説明してくれました。意識不明、出血の位置(脳幹)が良くない、心臓がこのまま止まるかも知れない。 ……その後、毎日病院へ通いました。不穏な日々が続きました。

 意識の回復は絶望的と思われていました。が、約一ヶ月後、孫(私の長男)が、耳元で大声で呼び掛けているとき、ぴくっと身体が動きました。その後は、転げるように意識が蘇ってきました。

 ただ、普通の会話は無理です。歩くことも叶いません。しかし、命は蘇りました。直後、医師から説明があり、「このまま中心静脈では栄養が全然足りない。衰弱して命が終わる。それを避けるには『胃ろう』という方法がある。」 ……弟と相談し、胃ろうをお願いしました。

 今から静かに考えるに、これが本当に親孝行だったかどうか? 今でも呻吟する私です。しかし、胃ろうにしなかったら自然死を待つばかりと言われたら、家族なら、母の子なら、やっぱり「胃ろう」だという結論に至ります。 ……ただし、立場が私なら中心静脈のままあの世へ召されたいというのが正直な気持ちです。

 その後、「要介護4」と認定され、退院後のことを相談する機会を得ました。「胃ろう」があります。24時間態勢で見守る必要もあります。不安で怖くて、とても我が家で面倒をみることは難しいと判断しました。実際、この頃は私も外出がとても多い日々を送っていました。担当の医師に「特別養護老人ホーム」を依頼しました。

 そこが、田舎の地域医療です。すぐ近くにある「愛寿園」と連携して、ベッドが空く間、病院と愛寿園とを行き来しながら、母は時を過ごしました。 ⇒そして、退院後のことを決めて8ヶ月後、平成28年4月、ぶじに愛寿園に入所出来、今日に至っています。

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