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2023.5.6


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日本人のモラル
恥ずかしいことをするな!


 カーラジオでNHKを出すと、司馬遼太郎の好きな言葉「名こそ惜しけれ」について解説をしているところでした。おおむね次のような内容でした。


 日本史が、中国や朝鮮の歴史と全く異なった歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府の時代です。素朴なリアリズムをよりどころにする「百姓の政権」が誕生してからです。私たち日本人はは、これを誇りにしたい。

 かれらは、京の公家・社寺とはちがい「土着の論理」を持っていました。さらに、鎌倉武士のモラルであり心意気であった「名こそ惜しけれ」という精神を持っていました。「恥ずかしいことをするな」という、「板東武者(勇猛で知られた関東生まれの武士)の精神」は、その後の日本の非貴族階級に強い影響を与えました。

 この「名こそ惜しけれ」という精神は、今もなお一部のすがすがしい日本人の中で生きているのです。

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今回は
歴史好きの私の知識を動員し
鎌倉時代の武士のこと
「名こそ惜しけれ」
鎌倉幕府について
あれこれ
振り返ってみることにします。




鎌倉時代の武士をめぐって
〜名こそ惜しけれ〜


 鎌倉武士は、以後の南北朝の動乱、室町期、戦国期、江戸期を通じて「武士の理想像」とされています。

 鎌倉武士の実態は自作農です。農民とは言っても、自らの手で荒地を開墾した開拓農民です。ちょうど開拓期の西部で大牧場を切り開いた、牧場主やカウボーイと通じるものがあります。彼らは自分だけの力で農地を切り開き、そこでの収穫で自立していました。

 特に関東では、そういう開拓農民が続々と集まり、自らのコロニー「開拓地」を次々と開いていきました。時代は、平安末期にさしかかる頃です。平安政府が政治をしていたのは実質、京都近辺のみという状況でした。お膝元の京都でさえ盗賊が跳梁跋扈し、それを取り締まる力さえありませんでした。ましてや遠く関東になると、無政府・無警察状態と言ってもよい状態でした。

 開墾も、初期のうちはいくらでも土地があります。ところが時代が進むと、当時の技術で開墾できる所はやり尽くしてしまい、点在していた開墾地も境界を接するようになります。境界を接するようになれば、争いが起こります。境界争い、水争いが頻発しても、それを仲裁する機関などありません。

 やむなく最後の手段、武力の衝突となります。自らの開拓地の命運をかけての戦いです。仲裁機関がないのですから、勝った方は境界を自分により有利にひき直すことが出来ます。場合によっては、相手の開拓地を丸ごと手にすることも可能です。なかには自らの勢力拡大のために、わざと争いをふっかけて戦い取る様なことも横行していたに違いありません。

 こんな中で「一所懸命」という言葉が誕生しました。現在では「一生懸命」として使われる傾向にありますが、本来は「自分の領地(一所)を命懸けで守り抜く」姿を表した言葉です。

 そんな環境では、力こそ正義になります。平和主義の非武装勢力では、瞬く間に一族は死滅します。自らの開拓地の安全保障のためには、いかに武力が強大であるかを喧伝する必要があります。常に勇敢であることを至上の価値観に置き、対極に卑怯な振舞いを蔑む精神が育まれていきました。

 戦いを挑まれればこれを受けて立ち、正々堂々己の武勇の限りを尽くすのが「美学」とされたのです。こうして生み出された武勇は「武士の誉れ」として称えられ、その名が知れ渡ると周辺の開拓地から一目置かれることになります。領地の安全保障とも直結します。武士が自分の武勇の名を守るのに命を懸けたのは、これが実利と裏表になっていたからです。こうやって、鎌倉武士の有名な精神である「
名こそ惜しけれ」が培われる事になったのです。

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気高い武士道精神


 鎌倉時代の合戦は、次のようであったとされています。

第一段階 : お互いの兵力、武器を誇示し合う。
第二段階 : 名を名乗りあい、時に一騎打ちを行なう。
第三段階 : 矢戦を行う。
第四段階 : 徒歩戦に移る。

 ところで、鎌倉幕府の目的はすこぶる単純です。自作農である武士を保護するために出来た政権です。鎌倉幕府に忠誠を誓い御家人となれば、律令体制下で不安定な存在であった自分の領地が公式に自分の物となります。もめ事も血を血で洗う紛争を行なわなくとも、幕府が公平な中立機関を設けてこれを裁定してくれます。

 全国の武士たちは、争って幕府の御家人となりました。また幕府は、戦いに参加した武士たちに、合戦で得た戦果を気前よく分配しています。つまり幕府は、武士たちに「一所懸命」を法的に保護し、功名手柄を保障したことになります。


 ところが元寇以後、武士の気風は変わります。2度にわたる「元寇」で命をかけて戦ったにもかかわらず、幕府から何の恩賞(土地の分与)もなかったことが発端となりました。

 南北朝から室町期の武士は、鎌倉武士の「名こそ惜しけれ」精神はすっかり影を潜め、ひたすら自分に恩賞を与えてくれる人物に従う事になります。ごく簡単に裏切りをし、さらにまた寝返るなんて事を日常茶飯事のように行ないます。

 源平合戦に較べ、南北朝の動乱がダラダラ続いたのは、武士が合戦において「命あっての物種」精神でのみ戦い、恩賞の多寡で北朝南朝を渡り鳥のように行き来したからです。

 しかしそうやって武士のモラルが変質したからこそ、「鎌倉武士の気高い精神」が後の世まで代々語り継がれ、理想像として憧れたのではないかと思います。

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忠義の武士
烏田権兵衛


 話はがらりと変わって、我が家の祖先「烏田権兵衛」です。こういう経緯から見れば、まさに「名こそ惜しけれ」という鎌倉武士の精神を具現化していると言えます。

 今回、たまたま聞いたラジオの解説から、ふと祖先の姿を彷彿とさせられました。

 2021.05.02 忠義の武士;烏田権兵衛
 
毛利氏来襲

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蛇足

【主な武士道の精神】

『義』…義とは、正義、正しい道のこと。
『勇』…勇とは、正しいことをすること。
『仁』…仁とは、「武士の情け」と言われているように悪に情けをかけること。
『礼』…礼とは、低くなること(自分を主張しない)。







春の夜の 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ             
周防内侍 『千載集』

現代語訳
短い春の夜の、夢のようにはかない、たわむれの手枕のせいで  
つまらない浮き名が立ったりしたら、口惜しいではありませんか。