@ 1542年、大内氏が尼子氏を攻めてきたとき、赤穴氏は尼子氏の味方として大軍相手に勇敢に戦いました。それから18年後(1560年)、今度は毛利元就が尼子氏を攻めるため大軍を進めようとしていました。そこで瀬戸山城(赤穴氏の城)では、「戦うべきか降参するべきか」、重臣を集めて話し合いが行われました。
A その結果、「三刀屋・掛合などの城は、みんな降参している。今、毛利の大軍を相手に戦っても勝ち目がない。降参しよう。」という結論に達しました。しかし、これに反対した武将が2名(森田左衛門と烏田権兵衛)いました。「お世話になっている尼子氏を裏切るとは卑怯だ。たとえ負けても潔く戦うのが武士の本分だ。」と主張しました。
B 二人は仲間を引き連れ、賀田城(「加田の湯」付近の山城)や月根尾原(飯南高校付近)を根城に反乱軍を組織し、ゲリラ戦法で毛利軍を悩ませ続けました。しかし、結局は大軍の前に烏田は月根尾原で討たれ、森田は尼子氏の城へと逃げていきました。こうやって、1542年の時のように大軍同士が戦うことはなく、毛利氏は尼子氏の城(広瀬町)を目指して軍を進めていきました。