忠義の士
烏田権兵衛

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2021.5.2


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賀田城の早朝登山イベントに先祖の決意思ひ涙す

御城印

 4月6日(火)、早朝4時半集合。「天空の朝ご飯」と題して、かつて城主だったとされる「烏田権兵衛」の居城(賀田城)跡に登山をしました。雨天のため順延、10名の欠席が出たとはいえ、暗い中を30人近い人数が城跡を目指しました。残念ながら朝日は望めませんでしたが、約270度見渡せる山頂(城跡)に佇んで、在りし日の権兵衛の苦渋の決断に思いを馳せました。涙までは出ませんでしたが、苦難の決断を思い、「涙す」としました。

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武者姿あまた集ひて瀬戸山の城址に立てり時空が歪む


                

 赤来高原「道の駅」と松江武者行列との共催で、赤穴城(瀬戸山城)に登城するというイベントがありました。武者姿は12名、わざわざ遠路駆けつけてくださいました。中には甲冑の重さが20Kgという方もありましたが、汗をかきながら登城にこぎ着け、写真は城下を背景に記念撮影です。思いがけずタイムスリップを体験しました。

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全く個人的な話題ですが
私は
烏田家の第27代目ということになっています。
先祖には
烏田権兵衛(ごんべえ? ごんのひょうえ?)勝定と名乗る武将がいたそうです。

戦国時代(尼子・毛利時代)に活躍したとのこと。
お家の大事に当たって大勢に組みせず
忠孝を貫いた武将として知られています。
この「生き方」は、
父から「我が家の家訓」として教えを受け
陰に陽に
私自身の指針となっています。

そこで今回は
私的な内容を取り上げることにしました。




以下は、飯南町教育委員会ホームページから引用させていただきました。



第2回目の戦火
〜毛利氏との攻防〜


 烏田権兵衛は恩顧の主君への忠義を貫き、勝てるはずのない毛利元就の大軍に戦いを挑んだ忠義の士である。

 地区内にある賀田城は烏田権兵衛の居城とされ、地域内のシンボル的存在である。住民はこの侍の行動を誇りと考えており、烏田権兵衛を顕彰する催しなどを行っている。

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 「当世において珍しいほどの忠義の士である、彼のような人物が私の味方についてくれたならどれほど心強いだろう」   ・・・これは毛利元就が烏田権兵衛勝定について評した言葉です。

 1562年、毛利元就は中国地方の制覇の総仕上げとして長年の宿敵であった尼子氏を討つべく大軍を出雲地方に差し向けました。尼子方であった多くの武将が毛利側に寝返り、尼子氏は風前のともし火といった状況になりつつありました。

 毛利の軍勢が瀬戸山城(飯南町赤名)に迫るなか、赤穴右京介(久清)の籠る城中では、40年来仕えて来た尼子方に味方するか否かの激論が交わされていました。今の状況で、毛利軍と戦っても利なく、毛利方への降伏に決しようとしていたその時、昂然として反論する二人の武将がいました。
 

 「我々は古来、尼子家に仕え、禄を受け、我々の代に至るまで二心なく仕えている。今、たまたま石見の国が毛利に切り取られたからといって矛を逆さまにして毛利に降参することは武士の本意にあらず。」

 烏田権兵衛と森田左衛門は尼子氏に忠義を尽くすべきだと主張し、とうとう「入日の尼子を見限り、日の出の毛利つくような臆病者に組することはできない。」として瀬戸山城を出て毛利軍に戦いを挑む選択をしました。

 烏田と森田は賀田城(飯南町下来島)などを拠点に、赤名に着陣した毛利軍の陣を襲ったり、神出鬼没の戦いで進軍を妨害しました。数回にわたって掃討の軍を送った元就でしたが、失敗に終わる状況を見て、しびれをきらせ、烏田・森田のかつての主君であった赤穴右京介(久清)を呼びだし、問い詰めました。

 「反乱を率いるはそこもと譜代の家臣と聞く、この不祥事にもかかわらず、率先して鎮圧に当たられないのはいかなることか」

 これに対し、赤穴右京介(久清)は毅然と、また、ありのままに申し立てました。

 「確かに両人は、わたくしの家臣であります。しかしながら、彼等は、恩顧の尼子家に忠義を貫き、武士としての道を貫いております。主従の関係ではなくとも、人道の正しきは彼等にあって非義は私にあります。今は敵対する関係となりましたが、私が忠義一途の両人を討つ事はできません。」

 元就は、しばらく沈黙した後、こう答えました。

 「貴殿が私どもに降参されたことは確かに武士の本意ではない、彼等の守る義にこそ理があって当然である。誠にあっぱれなる主従である。」

 やがて烏田権兵衛は討ち死にし、森田左衛門は尼子氏を頼って退き、一揆の軍勢は鎮圧されましたが、彼等についてを元就は家臣にこう語ったといわれています。 

 「右京介は古今の義者、烏田、森田は伯夷・叔斉なり。この人傑、味方に属しては末頼もしき事なり。」
                     
 烏田権兵衛の忠義心に感服した元就は、権兵衛が討ち死にした後も、烏田家が存続するよう取り計らったと伝えられています。              

     『尼子毛利合戦雲陽軍実記』 勝田勝年 校注
     『新雲陽軍実記』妹尾豊三郎 編著       

                         を参考にしています。

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以上は引用です。

瀬戸山城

賀田城

赤穴右京介




飯南町の歴史と文化-地図で辿る-瀬戸山城
〜引用したサイト〜




風見鶏


 遠い昔のことですので、正直なところはピンと来ない面はありますが、子孫の一人として誇らしいことだなと思っています。

 当時は、「風見鶏」ではありませんが、「風を読む」ことが生き残りの知恵として重宝されていた時代だったと認識しています。勢力の強い方へ組みすることによって、城下が戦場になることを避け、一族の生き残りにもつながります。

 戦ってみないと分からない戦は別として、負けることが分かっていて、あえて討ち死にすることほど無駄なことはありません。

 この赤来地域は、近隣では、実際に戦場となった古戦場を残している数少ない場所です。

 以下の引用は、(時は前後しますが、)烏田権兵衛が討ち死にする前、大内氏が出雲地方に攻め込んだときの様子です。

 この時は、赤穴氏は正面切って戦うことを決意し、4万の大群を相手にわずか2千の軍勢で果敢に戦っています。結局2ヶ月間、大内群を足止めさせました。このことが、尼子攻略が失敗に終わった大きな要因だと言われています。

 なお、この時は城内の川をせき止め、町並みは湖水と化したと伝えられています。

 ちなみに、この時も尼子に通じる各城は事前に寝返り、無血で富田城(尼子氏の居城)に攻め入っています。また、大内氏が敗走した後は、再び尼子氏へと寝返っています。

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以下は、再び飯南町教育委員会ホームページから引用させていただきました。



第1回目の戦火
〜山内氏との攻防〜


 戦国時代の中頃、中国地方では出雲国月山富田城(安来市広瀬町)に本拠を置く尼子氏と周防国山口(山口市)を中心に7ヶ国の守護を兼領する大内氏によって勢力が二分され、二者の間で覇権をめぐって一進一退の攻防が繰り返されていました。

 1540(天文9)年から尼子晴久は当時、大内氏の配下にあった毛利元就(安芸郡山城)を攻めましたが、これに失敗しました。

 尼子氏が一敗地にまみえると大内氏の富田城攻めがにわかに現実のものとなってきました。尼子氏が郡山城攻めに失敗し、富田城へ敗走してからちょうど一年後の1542(天文11)年正月、大内義隆は尼子氏の富田城を目指して山口を発しました。

 毛利元就をはじめ、石見・備後勢を合わせ、数万とも言われる大軍は石見国出羽の二つ山城に滞陣し、出雲国の入り口に位置する尼子方の堅城、瀬戸山城攻略の軍議を重ねていました。

 瀬戸山城に篭る赤穴氏には尼子氏の本城である富田城から田中三郎佐衛門率いる援軍が到着していました。城主の赤穴光清は城下を流れる神戸川を堰き止め、一帯を湖水化し、敵の侵攻に備えたと伝えられています。

 瀬戸山城攻めの幕は1542年(天文11)6月7日、大内方の熊谷直続によって切って落とされました。直続は、神戸川の堰を決壊させ、先功を立てようと手勢三百を引きつれ火を放ちながら城下に現れましたが、赤穴光清や田中三郎左衛門・吾郷大炊介により討ち取られました。

 大内軍四万に対し、瀬戸山城を守る赤穴光清の軍勢は、尼子氏からの加勢を含め二千だったと軍記物は伝えています。

 赤穴勢は、熊谷との合戦後も出羽助盛、本庄経光ら大内方の諸将の攻撃を受けますが、地の利を得た巧みな戦術と勇猛な戦いぶりによってことごとくこれを退けました。

 7月27日、ついに陶隆房、吉川興経らを中心とする大内勢の総攻撃がはじまりました。吾郷大炊介、松原采女らの奮戦によって、大内方を自陣に押し戻してその日の戦いは終わったかに思われました。が、城主赤穴光清が流れ矢に倒れ、長い戦いに終止符が打たれました。

 赤穴城を落とした大内・毛利軍は広瀬の月山富田城へ進軍し尼子氏を囲みますが、離反する者が増え、出雲国からの撤退を余儀なくされて尼子攻略は大失敗に終わります。

 大内・毛利軍の尼子攻略の緒戦で、2ヶ月近くの大軍を足止めさせた瀬戸山城の戦いは大内・毛利軍の遠征失敗の大きな要因になったことは間違いありません。

 さて、尼子・毛利の戦いを記録した書物に『雲陽軍実記』というものがありますが、1542年の瀬戸山城の合戦の頁に次のような部分があります。

 「然るに右京亮幸清(中略)鉄砲二十挺に弓を交え城の向かふ谷奥に伏せ置き(中略)味方難儀と見るとき、不意に横箭に入り、敵の跡より打っていでよ・・・」

 「(前略)向かう小谷口より伏勢弓鉄砲を揃え立て横矢にうち立て射立てする程に・・・」

 赤穴方が待機させていた弓矢・鉄砲隊により大内・毛利方が攻撃を受けた様子が見え、『雲陽軍事記』は出羽助盛の軍勢が負傷したと伝えています。

 1542年といえば、種子島への鉄砲伝来の一年前です。真偽の程はわかりませんが、ある研究者によれば、この戦いで使われた銃は石弾を使用する粗製な物ではあったかもしれないが、鉄砲が戦に使われたことが最初に確認できる戦いではないかとも言われています。

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以上は引用です。





あえて苦悩の中に飛び込んで


 そして、時は移り変わり、大内氏に取って代わって毛利氏となりました。

 先ほどの戦から20年後、今度は強大な勢力を誇る毛利氏が、再び出雲路へと攻め入ってきました。すでに富田城(尼子氏の居城)に通じる城は、ことごとく毛利氏に寝返っていました。

 こういう中にあって、冒頭前述(引用)のように、赤穴城内で軍議が開かれたわけです。@40年来の信義を貫き、討ち死に覚悟で戦い抜くのか、A無駄な戦を避け、無血開城するのか、……。

 この時、軍議の大勢はAに決する中、敢然として立ち上がったのが、森田左衛門と(祖先)烏田権兵衛です。城を飛び出して、毛利氏に恨みを持つ浪人や山賊など、約2千の兵ををかき集め、賀田城を根城にしながらゲリラ戦を展開したと伝えられています。

 「ごまめの歯ぎしり」ではありませんが、いったいどれほどの日数を持ちこたえたのでしょうか? 烏田権兵衛は討ち死にし、森田左衛門は敗走しています。

 この反乱により、(予想ですが、)赤来地域の民家・住民には、多大な迷惑・被害を与えたことと思います。こういう視点から見ると、この孤軍奮闘は「美談」として讃えるにはとまどいがあります。

 しかしながら、この両人の行動について、毛利元就は次のように語ったと伝えられています。

 「右京介は古今の義者、烏田、森田は伯夷・叔斉なり。この人傑、味方に属しては末頼もしき事なり」。

 武士の生き方としては、実に立派と言えます。これを褒め称えるようになったのは、案外「儒教」が日本に入ってきた江戸時代だったのかも知れません。

 いずれにしても、当時私自身が「烏田権兵衛」の立場に立たされていたらどうしただろう、と考えることがあります。地域住民のこと、家族のこと、自分の命など、そういうことを重視していたように思います。

 まして、自分の意見に同調したのは、森田左衛門ただ一人です。城を飛び出した後、兵力をかき集めないといけません。集めた武士に食わせないといけません。しかも、自らは戦死覚悟の上の決断です。そういう気の遠くなるような、血のにじむような苦悩を思うと、やはり「安きにつく」道を選んでしまうように思います。

 だからこそ祖先の選択に感動するし、尊敬もします。雲の上の人として、誇らしくも思います。

 小さいときから、父から幾度となく聞かされた「祖先の生き様」。まねは出来なくても、ものの見方、行動力に学ぶところは多々あります。

 私の部屋の片隅に「そのとき どう動く」(相田みつを)という言葉が掲示してあります。日々の生活の中で選択を迫られることが幾度となくやってきます。そういうとき、祖先の生き方をいつも指針の一つとしていることは確かです。

 「義勇の士」の血筋を引く子孫の一人として、「義理」「人情」「公平無私」「滅私奉公」などの精神を大事にしていこうと、決意を新たにしている今日この頃です。

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昨年以降
来島公民館主導で
賀田城址の整備が進められています。
4月6日には「天空の朝ご飯」と題して
早朝(4時半〜)登山が行われ
私も参加しました。


また4月25日には
赤穴氏の本城「瀬戸山城」への登山がありました。
冒頭の写真の通りです。

全国的なお城ブームの中
地元の城址も脚光を浴びようとしています。






毛利氏の居城は
広島県安芸高田市吉田町にある郡山城(城址)
私が子どもの頃
この吉田町の文房具店の店主が
ルーツを辿って
我が家にやってこられるという出来事がありました。

烏田権兵衛の子孫は
森田左右衛門に連れられて
尼子の軍まで退却したことは分かっています。


この出来事により
子孫はその後
毛利氏に召し抱えられたことが分かりました。


更に2年前
愚弟から情報を得ました。
何でも
全国で一番「烏田」姓が多いのは
山口県萩市とのこと。

たまたま
昨年
大学時代の硬式テニス部同期会が
山口県長門市でありました。
その帰路
萩市を訪れ
各所を見て回りました。

松陰神社を訪れていたとき
案内をしてくださった方に尋ねました。
「萩市には烏田姓が多いと聞きましたが?」

仰せの通りという回答が戻ってきました。
毛利氏の一族が
未開で不毛の地
この萩市へやってきて
農業・漁業を中心に街を興した。
幕末にあっては
吉田松陰が 私塾「松下村塾」を開き
のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者に
思想的影響を与えたとされています。

その中心的な人物は
大半が毛利氏ゆかりの人物
烏田氏もその中に加わっていた可能性が高いとのこと。




「烏田」(からすだ / うだ)さんの名字の由来、語源、分布 ...


カラスダ 【烏田】4 日本姓氏語源辞典

山口県萩市島根県広島県

@地形。烏と田から。山口県萩市堀内が藩庁の長州藩士に江戸時代、福岡県糸島市に戦国時代にあった。福岡県福岡市東区土井の小字に烏田あり。山口県萩市椿東中の倉では農業に従事していたと伝える。推定では江戸時代。

A島根県飯石郡飯南町上来島の小字の烏田から発祥。



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