@ 戦国時代のまっただ中、1542年6月初めのことです。山口の大内義隆は、総勢4万人の兵を率いて赤穴城(別名;瀬戸山城・衣掛城)を攻めました。城主 赤穴光清は、尼子氏から送られた援軍約千名を合わせ、約2千の兵力で城を固め大内軍を迎えました。
A 戦を前にして赤穴氏は神戸川を堰止め、城山の周りを湖水と化して守りを固めました。大内氏は赤穴に到着すると、川の堰を切って水を抜きました。が、梅雨時期と重なり、ぬかるんだ地面になかなか攻撃が仕掛けられません。2ヶ月近く過ぎた7月27日、ついに大内軍は赤穴城に向かって一斉攻撃を仕掛けました。午前5時半、大内の軍勢が猛攻撃をかけると、城からは石や弓矢などで反撃しました。しかし、昼過ぎになっても城が落ちる気配はなく、大内側は死傷者が千名にものぼりました。
B 夕方になって日が暮れると、大内側もいったん後方まで引き上げて休憩することにしました。ところが意外にも、その日の夜、赤穴氏が降参してきたのです。戦いの最中、大内側が放った矢が、城主の赤穴光清の喉元を射たのです。城へ逃げ帰ったものの、息絶えてしまいました。城主が死んでは戦えません。降参を告げたその夜中、残った兵は裏道を通り、月山「富田城」(今の安来市)めざして落ち延びていきました。この戦いで2ヶ月も足止めを食らわされた大内氏は、月山富田城を攻める頃には雪の季節を迎え、目的を達することが出来ず、やむなく山口へを兵を引き上げていきました。