道徳教育の全体像
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〜前半〜

2021.8.1


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「道徳科」が
小学校は平成30年度
中学校は平成31年度より
全面実施されました。

今回は教育事務所勤務時代(平成4年度〜)
道徳教育に関してまとめた文章(背景青)を
以下に記載するとともに
簡単なコメントを付すことにしました。





1.弱さも持ち合わせながらも
向上心を内在している人間


 人はだれでも「立派な行為が自然にできるようでありたい」、「もっと好い人になりたい」という思いや願いを、心のどこかに抱いている。

 ところが、人はだれでも、弱さやもろさを持った存在である。これを自覚し、よりよい自分を目指して心がけ、努力する。……これが人間の宿命でもあり、よさでもある。

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 人に関して、性悪説と性善説とがあります。

 性善説は「人は生まれた時は無垢で良い人なんだから、努力して良い人としてあり続けなさい。」という考え方。性悪説は「人は生まれた時はルールやマナーをわきまえていないんだから、努力して良い人にならなくてはいけない。」という考え方です。どちらも「努力して良い人になりなさい」という視点では同じ考えに立っています。

 この観点に立って私は、上のように「人は(大なり小なり)弱さを持ち合わせている」、「(犯罪を犯した人であっても)人は誰も向上心を持っている」と考えています。考えたいと信じています。

 ここに、学校で展開している道徳教育の存在感があります。ただ「三つ子の魂百まで」と言います。乳幼児期の環境が、その後の長い人生に与える底知れない影響力はいかんともしがたい面があります。

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2.上から押さえつけることで
人は変わるものなのか?


 親や教師は、子どものここを直したいとか、こうさせたいとかいう願いを持つ。しかし幼少時ならともかく、小学校中学年以降ともなると、口で言ってすぐ思い通りになるなんて、人間はそんなに単純な存在ではない。

 一般的に、他人の行動を変えたいと思う時(=人が動く時)は、「権威」、「賞罰」、「恥の意識」、「利害損得」などが考えられる。

 ところが、たとえ成果が上がったとしても、「表面に表れた形を変えた」にすぎないケースが大多数である。……当面の「権威」、「賞罰」などが取り払われたとたんに元の木阿弥。下手をすると、世渡り上手な「偽善者」、「二重人格者」、「面従腹背者」を育成する徒労に終わってしまいかねない。

 いずれにしても、上から押さえつけたり、怒鳴ったりということでは、ほんとうの意味で「人をただす」ことは不可能である。かえって、恨みや反感がむなしく残ることさえある。

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 教師の指導力について、これまで多くの本を読んだり、自問自答を繰り返したりしてきました。そして次第に確立してきた考え方が上のとおりです。

 幼い子どもにとって、教師の前には(基本的に)非力です。教師の権威で押さえつけ、怒鳴りつけたら、表面上は言うことを聞きます。しかし、これは見せかけの姿でしかありません。教師の方では、いかにも自分の「力」できちんとさせたと思うかも知れません。悲しいかな、これは「指導力がある」とは言いません。見せかけの(幻の)指導力です。「あなたはそんなに偉いのか?!」と問いたくなります。

 まして思春期(反抗期)ともなると、権威で子どもを押さえ込もうとすると、とんでもない反撃に遭います。そういう場面を幾度となく眼にしてきました。権威で押さえ込むことが「指導力」と信じていた教師は倍返しに遭い、さんざんに打ちのめされます。まさに「指導力のない教師」に転落します。

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3.人は変わりうるのか?


 「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだ。保育所の先生によると、3歳児で入所した時点ですでに十人十色。一人一人立派な個性を備えているという。人は、乳幼児期に人間性の基盤ができあがってしまうと言っても過言ではない。

 しかし、それがすべてというわけではない。少年期以降、人格の変容ということになると、確かに一筋縄ではいかない。相当な覚悟と自覚と努力が必要である。が、現実に、児童期以降においても人が変容(=成長)した事例がいくつもある。年齢が少ないほど心が柔らかい。成果が上がりやすい。

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 保育所に勤め始めて、「三つ子の魂」どころか「一歳児の魂」に一人一人個性があることを、はっきりと知りました。やんちゃな子、落ち着いた子、火がついたように泣く子、ほとんど泣かない子、笑顔が多い子、ほとんど笑わない子、暴力的な子、心優しい子……。

 はたして、この一歳児の時の個性が将来的に(少なくとも育了式の時期)どうなっていくのか? そこのところは、わずか一年間の勤務では掴みきれていません。しかし、人間の基盤が幼い時期に決まってしまう現実は、これは疑うべくもないようです。

 ただ、中学生以降、人間的な変容はないかというと、そう断言は出来ません。事実、中学校時代の姿が大人になって「変貌」した事例がいくつかあります。諦めてはいけません。

 よい方に変容していく原動力は何か? そこが重要な部分です。少なくとも「道徳の時間」だけで変わるとは思えません。やはり、人間関係や人的環境のの中で変わっていくものだと、私は考えています。

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4.人はどんなときに変容するのか?


 いろいろ考えられるが、なかでも「感化の力」と「集団の力」は大きい。インパクトがある上に、影響力の持続性がある。

 そして、その両者に共通しているのは、「自ら気づく」こと。心の底から「このままではいかん」、「ぜひこういう人間になりたい」という強い信念を抱くこと。

 ……ただ、信念を抱いても、自分が変わるということは並大抵ではない。それほど乳幼児期の重みは大きい。まさに、三つ子の魂百まで。

 一方、逆から入る方法も有力である。「形から入って心の至る」、「心は形を求め、形は心を整える」という言葉がある。コツコツと落ちているゴミを拾う。継続して老人ホームを慰問する。この行為の積み重ねは、やがては心の変容へとつながっていく。

 これと関連して「ピグマリオン効果」は、人にとってとてつもない力を発揮しうる。

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 人が変わりうる原動力として、私は2つを挙げています。この考え方は、今でも変わっていません。

 一つは「感化の力」です。「一目置く」という言葉があります。その人の人柄が立派で、頭が下がる、尊敬するという感情が湧いたとき、人は「感化」を受けます。指示・命令されるわけでもないのに、自然にその人の立ち居振る舞いを学び、真似ようとする心の動きを言います。

 感化力とは、オーラです。存在感です。相田みつをさんの詩「ただいるだけで」にその一端が伺えます。
 その人がいると、場の空氣がなごむ。
 その人がいると、元氣が出る。
 その人と話すと、やる氣になる。


 「私の言うことは聞かないのに、○○先生の言うことは聞くんだなぁ〜。」、……子どもは、その人の存在感によって、態度が(自然に)変わってしまうのです。その人から出る見えない力(感化力)が、子どもの態度を変えるのです。

  

 今ひとつ、「集団の力」は人を変える力を持っています。「朱に交われば赤くなる」と言います。

 
「朱色が入り混じれば赤味を帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるものだ、という意味の言い回し。語源については、中国のことわざ「近墨必緇、近朱必赤」に由来するものとされる。」(実用日本語表現辞典)

 学級集団の力によって、問題を抱えた一人の子どもが次第に立ち直っていったケースを、学校勤務の中でいくつか経験しました。

 実際私自身も、付き合う人によって「いい人」になったり「意地悪な人」になったりします。主体性がない、自我が確立していないと言われればそのとおりですが、(同じ自分であるはずなのに)付き合う人によって自分が変容することを自覚します。

 いい人の集団の中にいたり、いい人と一緒に過ごしていたりすると、自分は自然に振る舞っているのに「いい人」になってしまっています。それが確固たるモノとして固定化すれば、立派な「人格」と言えます。

  

 
「形から入って心の至る」、「心は形を求め、形は心を整える」
という言葉があります。心に浮かんでくる思いや感情は、自分の意志ではどうにもならないところがあります。それが個性を形成しています。

 変えたい個性があるとしたら、逆手から入る方法もあるはずです。それが「形から入る」方法です。「一日一善」という言葉があります。これを意識して実行しているうちは、本物の自分ではありません。しかし、「一日一善」が自然な行為として、無意識にするようになったとき、それは立派な「人格」と言えると思います。

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以下は、次回に回します。



5.学校の教育活動すべてが道徳教育となりうる

6.心の中を覗いてみれば?

7.「道徳の時間」でねらっていること

8.「教え込み道徳」と「内容読みとり道徳」