明日ありと思う心のあだ桜
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明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かんともかな

2022.12.18


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生きていると言うこと


 2015.5.7 早朝、母は脳出血で倒れ、救急車で飯南病院へ運ばれました。この間、幾度か命に関わる危険な場面がありました。一つ一つを何とか綱渡りしながら、奇跡的に意識を取り戻しました。

 意識を取り戻して間もなく、「要介護4」という認定が下され、一年間の入院の後、特別養護老人ホームに入所しました。

 しかし「クオリティ・オブ・ライフ」(生活の質)ということになると、我が身に置き換えて悲しくなります。まわりの方は「命が助かってよかったですね」と、異口同音に言ってくださいます。むろん、それはその通りです。母が生きて存在しているという認識は、家族にとってはありがたいことです。が、正直なところ私の心は複雑です。

 それでも、コロナ禍の前は調子のよい日には、こちらの言うことが理解出来ていると感じるときもありました。が、コロナで面会謝絶半年後、案の定、意思の疎通どころか全く無反応に! 話しかけても、虚空をぼ〜っと眺めるのみです。……息子の顔さえ分からなくなってしまいました。

 自分の置かれている状況も、母にはむろん分かりません。しかし、ある意味「(母にとって)その方が救われる」と、自分に言い聞かせている今日この頃です。

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「今のみ」を生きている


 ところで、意識が回復してから3ヶ月〜4ヶ月過ぎた頃、「母は記憶の保持が出来ていないのではないか?」ということに気づきました。当時、調子がよければ来訪者の名前を答えたり、「おはよう」「だいじょうぶ」「テレビはいい」「手が痛い」など、かすかな「息」と唇の動きとで簡単なことなら意思表示してくれていました。

 ところが、一日前に経験したこと(聞いた話)は翌日には記憶にありません。つい先ほどの出来事も覚えていないのではないか? ということも、何度かありました。 ……おそらく母は……「今のみ」を生きている(た)のです。

 その間ベッドに横たわり、ただひたすら時間ばかりが過ぎていきます。「今」という時間、その瞬間瞬間の流れの中を母はただひたすら生きています。命を長らえています。

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今を存分に生きる


 「今を生きる」。 ……母の姿を見ながら、最近ふと、この意味について考えるようになりました。

 日々、刻々、さまざまな出来事がやってきて、そして去っていきます。嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、辛いこと、……人生まさに喜怒哀楽の連続です。自分の人生の終点が、いつ、どこで、どんな形でやってくるのか? それは神のみぞ知る。

 だからこそ、今日一日、二度とやってこない「今の今」を大事にしなくては、という気持ちが募ります。むろん、過去のことは忘れていいということではありません。例えば自尊感情を高めるような出来事・場面は、心に温めながら過ごす意味は大きいと思います。

 それとともに、過去における挫折体験、辛かった体験なども、今を生きる上では大事な一面があります。「過去と他人は変えられない」と言いますが、辛かった体験も今現在の生活に生かせば、「今となってはよい体験」となります。見方を変えれば、「過去を変えた」ことになります。

 過去の体験を今に生かすからこそ、人類は進化発展してきました。「ヒト」は成長し続けることが出来ます。

 そして同時に心がけたいことは、過去に囚われず「今を大事に生きる」ことです。朝起きるとき、「さぁ今日は、とっておきの一日にするぞ!」と自分に言い聞かせてスタートします。夜、布団に入るとき「あぁいい一日だったなぁ〜」と心が満たされるよう、「今」の積み重ねを大事にしたいと思います。 ……「今のみを生きている母」を思い浮かべたとき、ふと再認識させられたことです。

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明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かんともかな

(親鸞聖人)


今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない。

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