部活動は地域が担う?
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2022.10.15


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部活動は地域が担う


 2017年4月、文部科学省は小中学校の教員を対象とした平成28年度の勤務実態調査結果を公表しました。10年前の前回調査と比べ、小中の教員とも勤務時間が増加。週60時間以上だった教諭は小学校で34%、中学校では58%に上っています。

 公立校教員の勤務時間は週38時間45分と規定。上記の教諭は「週20時間以上の時間外労働」が常態化しており、「過労死ライン」(月80時間超が目安)を上回っていることになります。文科省は「学校を支える教員の負担は限界に近い」とし、中教審などで対策を議論すると発表しました。

 これを受けて、同年12月(2017.12.26)、文科省は「学校における働き方改革に関する緊急対策」を発表しました。それによると、「部活動は学校ではなく、地域が担うものとする」という方向性を打ち出しました。特に、「教師の負担軽減」と「適切な部活動指導」を挙げています。日本独特のスタイルを抜本的に見直そうというわけです。

 教師の負担軽減という視点では、すでに「開かれた学校づくり」(1990年)で打ち出されています。部活動の外部委託が予算化され、現在では全国で3万人を超えています。今回の提言では更に推し進め、外部委託を「学校単位」から「地域単位」に移行させたいとしています。




【以下、備考(産経ニュース 2017.4.28】


 
前回調査(10年前)と比べ、小中の教員とも勤務時間が増加している。週60時間以上だった教諭は小学校で34%、中学校では58%に上った。
 公立校教員の勤務時間は週38時間45分と規定。これらの教諭は週20時間以上の時間外労働が常態化しており、おおむね月80時間超が目安の「過労死ライン」を上回っていることになる。
 調査は、全国の小中各400校の約2万人に、2016年10月の連続する7日間の勤務状況を聞いた。結果は、次の通りである。

職種 超過勤務時間(7日間) 前回比
小学校 教頭 12時間12分 49分増
教諭 11時間15分 43分増
中学校 教頭 12時間06分 21分増
教諭 11時間32分 32分増
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環境整備は?


 欧米では、部活動(課外活動)は、生徒の帰宅後、地域が担っています。その点、日本においては教員が担う姿が定着してきています。

 連合総研が2015年12月に実施した全国調査(『とりもどせ!教職員の「生活時間」』(2016年))では、そもそも公立中学校教員の38%は、部活動を教員の「本来的業務だと思う」と回答しています。

 これは一方で、「本来的業務だと思わない」が43%に達すると強調することもできます。はたして「働き方改革」によって、伝統的な日本の部活動の現状が打開出来るのでしょうか?

 私自身の場合、2校目(教員4年目)から「女子バレー部」を担当。(主顧問としては)以後3校13年間、心身ともに消耗する日々が続きました。この間、大小合わせて優勝の感激は30回以上味わうことが出来ました。が、それ以上に、(今思い返しても)気が遠くなるような教員生活が続きました。

 吉田中学校3年目(39歳)、教務主任に併せ(6月から不在となった教頭先生の穴を埋め)教頭代理を務めることとなり、同時に主顧問を退きました。以後、新たな質の違う負担を負いましたが、正直なところ解き放たれたような喜びを味わいました。

 私にとって部活動は、充実感・喜びというより、重圧・負担感でしかありませんでした。なお、以後は指導主事・教頭・校長と続きましたので、部活動顧問はありません。

 それだけに、「部活動は地域が担う」という方向性には賛同します。ただし、長い長い日本の「部活動文化」があります。地域が担うといっても、担い手がはたして存在するのか?

 まして、文科省案「複数校を対象とし地域内にさまざまな部活動を準備する」という発想は、都会的です。田舎では成立しません。方向性には賛同出来ても、環境整備は並大抵ではありません。

 ちなみに、ずいぶん前の調査ですが、文科省が「運動部活動の在り方に関する調査研究報告」(平成9年調査)をHPに掲載しています。興味深い結果が出ていますので、抽出して以下に掲載します。

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指導者の年齢
全体 25歳未満 25〜35歳 35〜45歳 45〜55歳 55歳以上
顧問として指導している 62.1% 75.6% 74.2% 63.7% 37.5% 27.6%
指導していない 37.9% 24.4% 25.8% 36.3% 62.5% 72.4%






部活動は楽しいか?
中学校
全体 1年生 2年生 3年生
とても楽しい 43 58 39 37
どちらかというと楽しい 40 35 44 42
どちらかというと苦しい 12 10 13 14
とても苦しい








保護者の意識
中学校
大いに満足している 16.4
ある程度満足している 55.3
少しは満足している 15.6
あまり満足していない 11.4
全く不満である 1.3







部活動参加の理由
中学校 高等学校
そのスポーツを楽しみたかったから 49.8 48.7
そのスポーツをうまくなりたかったから 42.3 30.1
体を鍛えたかったから 23.4 18.5
選手として活躍したかったから 16.0 17.5
充実して過ごせると思ったから 8.7 21.4
人間的に成長したかったから 5.2 9.9
友達をつくりたかったから 4.2 9.5
入りたい部が自分の学校になかったから仕方なく 6.0 2.1
全員加入で仕方なく 2.7 1.2








指導者の目的
中学校
協調性や社会性を身につけさせる 44.0
将来にわたってスポーツに親しむ態度を育てる 36.8
精神力や責任感を育てる 31.9
競技力を向上し大会で少しでも良い成績をおさめる 20.7
明るく楽しんで仲間と活動させる 25.6
体を鍛え将来活力ある生活ができるようにする 24.4
特にない 1.4







部活動で得たこと
中学校
体力が伸びてきた?? 53.9
スポーツの楽しさ?? 49.8
友達ができた?? 38.3
技術が向上してきた?? 44.4
精神力や責任感が伸びてきた?? 16.4
選手として活躍できている?? 13.3
生活が充実している?? 7.9
協調性が伸びてきた?? 4.9
特に変わらない?? 7.2









感じている課題
中学校
生徒 保護者 教員
特にない 33 22
活動時間が多すぎる 13 17 20
指導者の指導力の不足 16 18
活動場所がせまい 15 12 19
生徒同士の人間関係 12 15 14
指導者の意識の過熱など
費用がかかりすぎる
活動時間が少なすぎる
練習内容が厳しすぎる
保護者の無理解
保護者の期待の過熱
練習内容が易しすぎる
その他 10













蛇足です。
以下は
平成18年4月30日に
コメントの部屋に掲載した文章です。



私の部活動経歴


 自分自身の部活動経歴は、中学校時代がバスケット部、高校が陸上部(途中退部)、大学が硬式テニスです。

 中学校時代のバスケット部は、実に刺激的でした。1年生の時には特に、とにかく先輩が怖い、練習(体力トレーニング)がきつい。部活動が近づく午後の授業は、ほとんど上の空という状態でした。当時は部活動は自由参加でしたから、4月に26人いた新入部員は、1学期の終わりには6人に激減しました。

 でも、練習がきついだけあって、大会ではそれなりの成果を上げ、また、厳しい練習だっただけに、後から振り返ったとき、強烈な印象が残っています。焼け付くような、さまざまな場面が今でも、幻のように思い浮かんできます。

 高校時代の部活動は、1年生1学期をもって終止符を打ちました。中学3年2学期から親元を離れ、都会の中学へ転校。都内の高校に学んでいた私にとって、高校1年夏の帰郷が命取りになりました。

 いったん帰郷すると予定外に滞在が長引いてしまい、上京して部室をのぞいたときに「退部勧告」が待っていました。それ以後は、「勉学のために上京したのだから」という叔父の忠告にも従い、帰宅部に転落してしまいました。だからといって、成績が上がったわけでもありません。

 それからは生徒会活動に首をつっこんだものの、高校生活の不完全燃焼は、今でも大きな後悔となったままです。

 大学時代は、硬式庭球部に身を置きました。当初はレギュラーをめざしていたものの、京阪神から来ている経験者、軟式テニス経験者の後塵を拝し続け、団体戦レギュラー入りをしないまま4年間を終えました。

 ただ、ここで得た数々の貴重な体験は、大きな宝となっています。当時同級生だった9名とは今でも毎年、幹事を交替しながら集い、旧交を温めあっています。

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初任校
大東中学校


 島根教員奉職と同時に、大東中では、こともあろうに「男子体操部」の顧問を命じられました。体育免許も所有していたこと、若いということが、その理由でした。大の苦手「体操」でしたが、新米には断ることも出来ず、部活動顧問としての第一歩を踏み出すことになりました。

 先輩が後輩を必要以上に「しごく」という事件も起きました。(ただし、私自身の中学校時代から見れば、事件とは言えませんが、何と言っても時代が違います。)

 部員が鉄棒の大車輪を練習中、手がすっぽ抜けて5m位すっ飛び、壁に激突する事件も起きました。バク転練習中、後頭部からマットに落ち、目を白くし口から泡を吐くという、恐ろしい出来事もありました。訳も分からないのに、県大会の審判をさせられ、いい加減な採点をしたこともありました(ごめんなさい)、……。

 今静かに振り返っても、不安と恐怖と自信のなさの毎日を送っていました。同じ体育館で、バスケット部が生き生きと刺激的な練習をしているのを、羨ましそうに眺める、情けない私だったと思います。

 翌年度は、陸上部顧問に替わりました。男子体操部は危険だと言うこと、専門家がきちんと見ないと技術の向上は望めないこと、部員が少ないこと、部活動中に問題行動が幾度かあったこと、……こういうことが理由で、すでにこの年から、新入部員は入部停止。残った男子部員は、女子体操部顧問(=体操の専門家)が一緒に見ることになりました。いずれにしても、私にとっては幸運でした。

 大東中の陸上部は伝統がありました。男女合わせて60名〜70名の大集団です。もともと走る(短距離)ことが好きで、得意でもあった私にとって、やりがいのある部活動を担当することになりました。

 体育の先輩教員に、練習メニューのアドバイスを受けながら、練習を工夫するのが楽しい私でした。そして何より、生徒を指導するというより、自分自身が一緒に走ることが楽しくて楽しくて、毎日放課後が充実していました。県内で通用する選手も、何人か輩出しました。(野球部員の力も借りて)県駅伝大会3位という感激も味わいました。

 ただ、長距離走は練習成果がそれなりにありますが、短距離走は持って生まれた素質(バネ)は、どうにもならない面があることを知りました。それでも中学生というのは、第二次成長期。ほとんど何もしないでも、記録は伸びる一面もありました。

 大東中学校3年間、技術指導をした、鍛えたという印象はありませんでしたが、生徒とともに活動したという充実感は残っています。それに、毎週日曜日は、基本的に部活動がありませんでした。ゆとりの日曜日を楽しんでいました。とは言っても、若くて独身でしたから、毎週のように生徒が遊びに来ていました。その相手をさせられて? いました。

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2校目
バレーボールとの出会い


 次の学校では、ぜひバスケット部の顧問になりたい。そういう願いを校長先生に伝え、内示段階では(バスケット部のある)M中学校が告げられました。が、ふたを開けてびっくり。実際は、隣の阿須那中学校(生徒数50人余りの小規模校)でした。

 しかも、バスケット部が無いどころか、異動された先生が「女子バレー部」だったから、その後をよろしくとのこと、……。異動先の学校には、男女ともバレー部と軟式庭球部(=ソフトテニス部)しかありませんでした。

 個人的には、球技の中ではバレーは苦手。せめてテニス部を持たせてもらえたら、まだ幸せなのに、……。そういう苦い思いで、新たな部活動顧問の生活がスタートしました。パスを生徒に教えてもらうところからの、情けないスタートでした。

 ところが、その受け持った女子バレー部が、何とも恐ろしく弱いチーム。春先に、あまり強くないチームとの練習試合に出かけたところ、ことごとく負け。負けるどころか、1セットに5点も取れない。しかも、生徒は負けても別にショックを受ける様子もないのです。そして事件? が起きました。

 いつものように土曜日、体育館に足を運ぶと、活動開始の時刻が過ぎているのに、部員がいない。ネットも張っていない。やむなく一人でネット張りの作業を始めると、まもなく3年生部員がやってきて、「え〜〜っ、今日も先生は出られるんですか?」とのこと。なぜかとその理由を尋ねると、これまた驚きの回答。「先生が練習に来られると、部活動が楽しくありません」。 ……(通常は、基本練習を簡単に済ませると毎日、試合形式の練習。)

 つまり、顧問の私には来てほしくない。自分たちで自由に楽しく部活動がやりたい。……こういうことのようです。私のショックは深い渕。そのショックを隠すように、何事もなかったように、私は靴を履き替えて校庭に出ました。そして、生徒だけで練習をしていたテニス部に混じって、一緒に汗をかきました。涙か汗か分からないような汗をかきました。その日、女子バレー部は3時過ぎには早々と練習を終え、わいわい楽しそうに帰宅していったことを、今でも覚えています。

 その後のバレー部の部活動は、出るには出ましたが、自分が汗びっしょりになって、部員を鍛えることはやめました。1年生の相手をするか、上級生の練習を見守るか、試合の笛を吹くか、……。全体として脇役かロボット役に徹しました。

 そして迎えた、2日間にわたる郡大会。初日は、4チームずつに分かれてのリーグ戦でした。むろん、3戦3敗。しかも、最高取った点数が1セット5点という、何ともむなしい敗戦でした。ショックだったのは、最終戦最後の笛を聞いた後です。ベンチに帰るやいなやレギュラーたちは、「やったー、おわったぁー」と笑顔で、水を飲みに水道に走っていきました。(当時の水分補給は水道でした。)

 こういう部活動がいけないとは言い切れません。実際部員は、それなりに満足して部活動を終わったのですから、……。でも、自分自身の中学校時代の部活動を思うとき、あまりに隔世の感があります。「これは違う」、「こんなものじゃない」、そういう反発心が一気にわき上がりました。

 たまたま新人チームの主力(2年生)は、私の担任クラス。新しいチームで出発するに当たり、一人一人の部員の気持ちを聞きました。私の思いや願いも伝えました。すると、「練習が苦しくてもいい、勝ちたい」との思いで一致。これが、私の苦しくつらい部活動顧問としての教員生活のスタートでした。(そこまでしなかったら、自分の首を絞めることもなかったのに、……。)

 バレー指導について全くの素人だった私は、本を買いあさる、人に聞きまくる、強いチームの練習を見に行く、テレビバレー教室は録画して何度も観るなど、出来うる限りの勉強をしました。練習後は、私の体重が2Kgも減るような練習を重ねました。選手も、必死になって練習に励みました。

 そして翌年6月の郡大会では、8チーム中3位。1位のチームが石見地区優勝校だったので、幸運にも県大会(隠岐大会)に出場しました。しかも1回戦勝ちました。みんなで隠岐観光をしました。勝ったからこそ味わえる体験をすることが出来ました。

 翌年度は、とうとう郡大会初優勝。当時としてはほとんど例を見ない、各種(A・B・C)クイックを武器に、石見地区でも優勝をねらえる位置に付けるほどになりました。その代わり、私の私生活はバレーづけ。日曜、祭日を問わず部活動。しかも、当時レベルの高かった、大田市内の中学校に幾度足を運んだことか、……。

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3校目
バレーバレーバレー


 4年間勤務した阿須那中学校を後にして、今度こそバスケット部を、と思いきや、希望地域とは全く違う頓原中学校。バレー部顧問が義務づけられた異動でした。

 しかも、頓原中の現チームは、前年の出雲地区バレー大会で3位という、恐ろしく強豪チーム。レギュラーメンバーの身長も、160センチを超えた生徒が4人。高い打点から、Aクイックをたたき込む本格的なチームでした。

 その後の7年間、国語の教師というよりは、バレー部の監督と言った方がふさわしいような、怒濤のような教員生活が続きました。地域的には山間僻地でしたが、スクールバスが1台、ほとんどバレー部専属。毎週のように練習試合に出かけました。

 この間、郡大会はすべて優勝。県大会も最高は3位に止まりましたが、ベスト8にはだいたい入る成績を残すことが出来ました。

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4校目
やっぱりまたまたバレー


  ここまで来ると、異動は部活動がらみと言った方が当たっているかも知れません。いつの間にか、私はバレー指導者という烙印が押されたようです。次の異動は、同じ郡内の吉田中。保護者からは、「バレーの先生が来た」と言われました。

 今まではさまざまな環境に恵まれ、運動が得意な生徒がバレー部に集まる学校でしたから、ある程度の成績が残せたようなものです。でも、異動先の学校は郡内でも(失礼な言い方で申し訳ありませんが、)上位を争うことの、まずないチーム。

 ところが偶然とは恐ろしいものです。保護者が熱心だった上に、新入生のうち11人もバレー部に入部。しかも170センチもある長身生徒もいたのです。教育長さんも熱心で、バレー部用にマイクロバスを毎週用立ててくださいました。もう逃れるわけにはいきません。もともと熱中しがちな私です。バリバリと、再び練習に打ち込みました。生徒もよく堪えてくれました。

 そして、その翌年の郡新人戦では、宿敵(前任校頓原中)と大接戦。2年目の新人戦では、他を圧倒して20数年ぶりの郡優勝。出雲地区大会ベスト4。これが、私が部活動の第一線で指導に当たってきた、最後の年となりました。

 翌年度は、教務主任の上、教頭先生が長期療養。教頭代理も務めることになり、部活動は若い先生に譲りました。でも、一度頂点を極めると、不思議なものです。新顧問の先生と生徒もよく頑張り、しばらく郡内では優勝を争うチームであり続けました。

 以後は、教育事務所勤務、教頭、と続きましたので、部活動の第一線に戻ることはありませんでした。部活動から身を引くと、心身ともに本当に楽になりました。後から静かに振り返るとき、それまでの教員生活は異状だったのではないか? と思われるほどの、家庭生活を犠牲にして成り立っていました。

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