どのように書かれているか?
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2020.3.22(日)


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どう表現されているか?


 数年前、学生時代の後輩が「NHK[ラジオ文芸館]を録音したCD」を48枚プレゼントしてくれました。一話がおおむね40分、短編小説の朗読です。以後、長距離運転(30分以上)の車中は、このCDを聴くのが大きな楽しみの一つになりました。

 気に入った作品は6〜7回、平均3回は聴きました。ストーリーは分かってはいても、表現力に酔いしれます。実に心地よい感じです。

 何事につけ、何が書いてあるかはむろん第一義です。が、「どのように書いてあるか」という視点が、私にとって大きな関心事です。次の二つの観点から、いつも気にしています。

 一つは「要約学習」で取り組んでいる図式が関係しています。伝えたい内容が脳裏に塊としてある。それを構造化したのが「図式」です。どこから話し始めて、どのような順番で伝えていけば一番効果的か? これを意識的に学ぶのが「要約学習」であり、その基盤をなしているのが「図式」です。

 今ひとつの視点が「表現力」です。語彙という側面もありますが、文学的表現も見逃せません。そして、近年の関心事は後者(文学的表現)です。退職して「赤名短歌会」に所属し、短歌を作ったり鑑賞したりし始めてから富みに意識するようになりました。

 このときから、車中の過ごし方は青空文庫やユーチューブなどの「小説の朗読を楽しむ」ことが習慣になっています。

 以下は『幼き日のこと』(井上 靖)の一部です。

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素晴らしい表現
〜井上靖の作品から〜


 氷が張っているときも、張っていないときも、水は少し青黒い色を呈して静まりかえっている。あらゆるものを拒否しているような不機嫌な静まり方である。

 何層にも重なっている雲の間から、時おり恐ろしいほど下の方に小さい海のかけらが見えることがあった。

 伊豆では早いときは、一月の終わりに梅の花が咲く。普通は二月に入ってから、梅はその白い花弁をもたげ始める。

 小学校へ上がるようになると、夕暮れというものは、寂しさと恐ろしさとが入り交じったものとして感じられてくる。村の辻々で遊んでいた子ども達も、不意に夕暮れが来ていることに気づくと、家に向かって駆けだしていく。一人が駆け出すと、他の子供たちも次々に駆けだしていく。駆け出すと同時に、夕暮れの寂しさと恐ろしさが四辺から押し寄せてくる。

 小学校へ通うようになってからのことであるが、わたしは小学校の校庭とか、田んぼとか、そうした広い場所で遊んでいるとき、夕方になったことに気づくと、いつも刻一刻濃くなろうとしている薄暮に寂しさを感じた。さして怖さは感じなかった。そうしたとき、土蔵へ向けてひたむきに駆けていくときの気持ちは、今思うと、寂しさの海をクロールで泳ぎわたっていくようなものである。

 “しろばんば” の白さが夕やみの中にとけ込み始めると、子供たちは、ひばの枝をそこらへ投げ捨てて、それぞれ自分の家に向かって駆け去っていく。今までは小さい白い虫をひばの枝に引っかける作業に熱中していたが、今度は自分たちが何者かの大きな手に引っかけられそうな恐怖感に襲われる。冬の夕暮れはわたしにも怖かった。

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〜出典『幼き日のこと』(井上 靖)より〜






推敲するも……



西空の飛行機雲をあかく染め
      元日の陽はばくらと暮れゆく

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 赤名短歌会に持ち出した私の詠草(駄作)です。

 この年の元日は積雪もなく、穏やかに暮れていきました。のどかに過ごした一月一日、夕方のランニングを終えて西の空を見ると飛行機雲が2本、東から西に向かって伸びていました。その白い飛行機雲が夕焼けに染まっています。

 平和に暮れていく元旦を象徴するような光景でした。この後、琴引温泉に浸かったりサウナで汗を流したりする、私にとって至福のひとときが控えています。そのときの私の心情にしっくりとくる一期一会の景色。さっそく「短歌」に残そうと思いました。

 とりあえず、そのときの風景を表現しなければなりません。「
西空の飛行機雲をあかく染め」「元日の陽は暮れゆく(暮れたり・暮れり)」という在り来たりの言葉が浮かびました。

 第三者から見たら何の変哲もない、ごく普通の作文に過ぎません。しかし、そのときの風景を説明しないことには作品になりません。これを「短歌」にするには「どのように暮れていっているのか?」を表現する、わずかに3文字〜4文字がポイントです。

おちらと 暮れゆく
のんびり 暮れゆく
ゆるりと 暮れゆく
ゆるゆる 暮れゆく
平和に 暮れゆく
ぬくぬく 暮れゆく
さやかに 暮れゆく
凛と 暮れゆく
……… 暮れゆく

 他にもいくつか、浮かんでは消え浮かんでは消えしました。かっこよく表現すれば「産みの苦しみ」です。結局たどり着いたのが「
ばくらと暮れゆく」でした。「ばくらと」という語彙は赤来地方にはありません。でも、このときの自分の心情表現に、一番しっくりくると感じました。

 語尾についても、「暮れゆく」「暮れたり」「暮れり」「沈む」「沈めり」「落ちたり」「落つる」など候補が浮かび、ぐるぐるめぐって「暮れゆく」にしました。

 それにしても、あれこれ思い悩んで生み出したのに、なんと陳腐な作品であることか。どこにでも転がっているような、石ころのような作品です。表現力もさることながら、あのときの光景に(作品に残すほどに)感動していなかったのではないか、ということかな? 

 A新聞社の「しまね歌壇」選者として、本当に自分がふがいない。情けない。今年は本気で精進する年にしないといけません。至上命令です。ちなみに、今月の短歌会に提出された詠草で気に入った作品があります。本人の了解は得ていませんが、……。

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以下は、最近の短歌作品です。

利尻島にて
姫沼に夏を惜しみて高山の可憐な花の競ひ咲きをり


隠岐島前(西の島)にて
摩天崖とけこむやうに陽が沈み海辺の波は秋を刻めり


日暮が早い11月の作品
夕闇がかぶさるやうに落ちかかる山道抜けむと犬も急げり


毎晩、教材づくりに追われている日々
要約の教材づくりカメムシの羽音に乱れ遅々と進まず


新年の作品
かたちなき時間といへどあらたまの年は静かにわが前にあり


保育所の豆まき
豆まきをやり終え鬼は仰向けに倒れて園児の残響聞けり


新型コロナウイルス憎し!
拡がれるコロナウイルス卒業のかけがえのなき日々蹴散らせり

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