素読と暗誦力
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2020.3.8(日)


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素読


 「素読」は、江戸時代の学習法の一つです。いちばん一般的に広く行われていたのは、朝早く師匠の元に集まり、四書(儒教の代表的な経書『大学』『中庸』『論語』『孟子』)を皆で音読するという方法です。意味の解釈をいちいち付け加えることなく、書いてある文字を大きな声でひたすら読み上げるシンプルな方法です。

 その効用を老荘思想研究者でベスセラー作家でもある田口佳史氏は、次のように語っておられます。


 一つ目は、言葉の響きとリズムを反復・復誦することで得られる効果だ。何度も反復して読むことで、いつも自分が使っている言葉とは次元の違う言葉、あるいは、日常の会話とは全く違うジャンルの言葉、つまり、心の言葉、精神の言葉というべきものを幼い魂に刻印しておくという学習効果がある。江戸時代は3歳から15歳くらいまで何年もかけて行っていた。

 二つ目は、声に出して読むこと(音読)の効果である。明治時代に入り目読(黙読)という言葉が使われ始めたが、それまでは音読が普通だった。通常、我々は書物を目で追って黙って読むものだと思い込んでいるが、かつてはそうではなく、“耳”で読むものだった。要するに声に出して読めば、耳が聞くことになる。目だけではなく、耳を使って読むことが書物の読み方だったというわけだ。

 「聡明と」いう言葉があるが、「聡」は「よく聞くこと」を意味する。そして「明」は「よく読み、よく見ること」を指す。つまり、聡明な人間を育てるために素読はよい訓練にもなったというわけである。

 三つ目は、音読は男女・年齢・学力などを乗り越えて学習を共有出来る。お互い違いを超越した、人間の魂の響きのようなものを毎日感じることができるようになる。

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 幕末の頃世界の教育先進国は英国だったそうですが、その英国でさえ文字の読み書きができたのは4割以下だったとされています。ところが、日本では7割の人が普通に読み書きができるとペリーは驚愕しています。

 藩校・寺子屋で行われていた、この実にシンプルな学習法(素読)が日本の識字率を高めていたとは! 驚きです。さらには、幕府や各藩の官吏の登用試験では、暗誦能力の高さが合否を決定する大きな要因となったという記録が残っています。

 暗誦は、素読の繰り返しの中から生まれたことと思われます。教え子の場合も、音読繰り返しの向こうに「暗誦」があります。あっという間に暗誦する子もいれば、いくら時間をかけてもかけても覚えられない子もいました。

 調査はしていませんが、暗誦力の高い子は読解力が高く、暗誦力の低い子は読解力も低調。しかも、両者に相関関係が(明らかに)認められました。

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暗唱力


 私自身の体験談です。


高校時代

 中学校時代の授業内容は、ほとんど忘れ去っています。が、不思議と3年生の時に暗誦させられた「高名の木登り」(徒然草)は、今でも誇らしい印象とともに、そのときの光景を覚えています。

 高校1年時、古典は(受験参考書執筆で)都内では有名な先生に習いました。さすがに授業は強烈な印象が残っています。教えてもらった内容は、今となってはことごとく忘れてしまっていますが、不思議なことに「すごい」「さすが」という映像と印象だけは、今でも脳裏に残っています。

 ところが、せっかく有名な先生に習ったのに、成績も上がらなければ、古典が好きになったわけでもありません。

 高校2年生になると、古典の先生も替わりました。一転して雑談の多い、どちらかというと冗長な授業でした。ところが半年後、私に異変が起こったのです。

 何と、古典が好きになるとともに、自信がわいてきたのです!

 その原因は、定期テストの出題内容が「原文の完成」と「現代語訳」のみだったことにあります。

 テスト対策のため、教科書教材を片っ端から徹底して暗誦しました。これが、私の古典の学力を一気に押し上げたのです。自分の体に力がみなぎり、たまたま書店で手に取った「初対面の古典」をも、読みこなせるようになっている自分に気が付きました。それ以前には決してなかった感覚です。

 そして驚きは、後を追いかけるように現代国語の成績も向上したことです。

 
教職の教科はこれがなかったら得意教科は「数学」、よく分からない教科が「国語」のままの卒業だったと思います。高校時代の実体験が、教職に国語科を選ぶいちばんのきっかけとなったことは、疑いのない事実です。

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 続いて、教職に就いてからの体験です。



教諭時代

 私の教諭時代、2校目からは小規模校のため国語担当は一人でした。そこで、かねてからの念願、古典は各学期に分散して指導計画を立て、生徒にはことごとく暗誦させました。

 教科書だけでは物足りなくて、詩歌・古文・百人一首など教科書以外の作品も、徹底して暗誦を課しました

 ところが大半の若い頭脳は、あっけなく一気に覚えてしまいます。暗誦が早く終わった生徒は、図書室で「自由読書」の喜びを与えるとともに、時には小先生(暗誦朗読の合格判定者)の役目も担ってもらいました。

 次第に少人数になっていく教室では、力量に合わせて暗誦範囲を狭めながら、必死の暗誦が続きます。遅れがちな生徒、気になる生徒への、またとないスキンシップの時間となりました。

 そのうちに、文章読解力と暗誦能力との相関関係に気づき始めた。これは、自分自身が高校時代に体感し、気付いたことでもあります。名文暗誦を突破口に、読解力を高める。これぞ、逆転の発想!

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 結論は、「名文暗誦を突破口に、読解力を高める。」ということです。考えてみれば、江戸時代の寺子屋、藩校など、ほとんどが「素読」(名文をただひたすら音読する)だったようです。こういう学習? を通して、偉大な著名人をたくさん輩出しています。


 また、次のような事実も指摘されています。

素読の威力

 「情緒力の欠如」が話題になることが多くなりました。近年増えてきていると言われている、切れる子、衝動的な子、感情を抑えられない子、傍若無人な言動をする子、わがままいっぱいの子、……。

 脳(特に前頭前野)の発達障害が指摘されています。前頭前野は、物事を考える、記憶する、喜びや怒りの感情を作り出す、記憶をしまったり取り出したりする、行動を抑制する、他者の気持ちを理解するなど、脳の中でももっとも高次な機能を持つ領域です。

 「三つ子の魂百まで」と言われます。「乳幼児期における母子の情愛ある会話が、前頭前野を活発に働かせ、発達を促す」とも言われています。

 しかし乳幼児期を乗り越えて普遍的に、前頭前野を鍛える一つの方法があると主張する学者がいます。川島隆太氏の研究によると、それは「素読」(意味の理解は問わず、ひたすら音読を繰り返す)です。

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 原点に返って、名文の音読・朗読・暗誦を見直し、教室に積極的に導入すべきだと思います。

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