心の中を覗いてみれば
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2020.2.23(日)


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「道徳科」が
小学校は平成30年度
中学校は平成31年度より
全面実施されています。

今回は教育事務所勤務時代(平成4年度〜)
道徳教育に関してまとめた文章(背景青)を
以下に記載するとともに
簡単なコメントを付すことにしました。

今回は後半です。



2020.02.16 人はどんなときに変容(成長)するのか?





5.学校の教育活動すべてが道徳教育となりうる


 文部科学省では、「道徳教育」「道徳の時間」を次のように位置づけている。
 「学校における道徳教育は「道徳の時間」をかなめとし、学校の教育活動全体を通して行うものであり、……」

 朝起きてから布団に入って寝入るまで、人にとってすべての生活経験が道徳教育となりうる。特に、喜怒哀楽を伴う衝撃的な体験は、本人の心の中に強く長く息づく。

 ただ、体験がそのまますべて「道徳教育」かというと、そうとは限らない。

(1) 教師(大人)によるタイミングのよい「言葉がけ」や「評価言」は、子どもにとって重みがある。特に、敬服している大人からのアプローチは、大きな影響力がある。

(2) それとともに大事なのは、「自立的な側面」である。そのためには、日ごろから自他の言動を一歩下がって見つめる習慣が求められる。折に触れて自分の「心の中を覗いてみる」という行為が、心の成長には欠かせない。

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 教師になった頃、(文学的教材を扱った)国語の授業と、「道徳の時間」との区別が、情けないかなはっきりしていませんでした。どちらも登場人物の「心の動き」「心情」を扱うからです。

 国語の授業では、表現を根拠に正解を求めます。道徳では、根拠は必要ありません。根拠を求めないから、正解もありません。いやいや、その実、教師は道徳的な回答(解答)を準備していて、そこに落ち着かせるために様々な工夫(補助発問)を凝らします。それが実態です。授業の終末には、道徳的なところへ着陸しなければ後味の悪いものが残ります。授業「道徳の時間」とは呼べません。

 結局、価値を押し付ける「教え込み道徳」と、国語の授業と同じような「内容読み取り授業」が展開していたということです。とりわけ、文章を基に「道徳の時間」を展開すれば、ときとして国語の授業になっていました。むろん、これは私のケースです。

 こういう「道徳の時間」が積み重なっていくと、教師(私)も生徒も「道徳嫌い」のアリ地獄に引きずり込まれることになります。(なりました。)

 このアリ地獄から抜け出したのは3校目「頓原中」です。県教研大会で授業公開の授業者になったことが、突破口になりました。そこで出会ったのは「井上治郎道徳」です。

 ここでは詳細は避けますが、教師は道徳的な価値を教え込む人ではなくなります。発問を投げ掛けると、徹底して聞き役にに徹します。生徒は「自由発言方式」にのっとり、挙手も指名もない環境のなかで発言の意思のある生徒が起立しては意見を述べあっていきます。教師の役割は交通整理と、発言の図式化(分かりやすく端的にまとめる)です。

 ですから、こちら(教師)の意図しない方向に話し合いが展開していったり、まとめたい終末にならなかったりすることが、ままあります。それはそれでよしとします。教師はしゃしゃり出ません。ただ、あまりに不道徳的なところに着陸しそうになると、自分なりの所感をあえて述べます。もともと「人の生き方」にこれだという正解はないというのも、一面です。

 その上、もともと教師自身、完璧な人間でもありません。偉そうなことを言える分際でもありません。ただ、「より良い人間」目指して悶々としたり、心がけたりという日常は大事にしたいと思っていました。これなくしては、「道徳の時間」の教壇に立つ資格がないと言い聞かせてもいました。

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6.心の中を覗いてみれば?


 同じ行為でも、心の中を覗いてみれば実にさまざま。よき行為にも、さまざまなレベルがある。
 例えば、「トイレの乱れたスリッパを整える」という行為を考えてみよう。……「こういう時には直すよう、先生から言われている」「人が見ているから揃えなくちゃ」「先生に褒めてもらおう」、「ちゃんとしろよ! ぶつぶつ・・」「(無意識のうちに)(当然のこととして)」、……。

 善き行為にも、さまざまなレベルがある。利害打算で表面的によい行いをしているだけなのかもしれない。逆に、道義的に許されない行為ではあっても、心の中を覗いてみれば、本人の心は深く傷つき、罪の意識に悶々としていることだってありうる。

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 当然の話です。「道徳の時間」に多くを期待するのは筋違いです。なんと言っても、人が心を動かし自己変容しようという影響を受けるのは、日頃の人と人との関わりのなかです。とりわけ感銘を受けたり、衝撃的だったりすると、自分が変わるきっかけとなります。

 それとともに大きいのが、尊敬する人、一目置く人からの言葉がけ(評価言)です。特に、褒めたり認めたり励ましたりされた場合、次への大きなエネルギーになります。

 なお、(2)の件については「道徳の時間」との関わりがあります。一週間にたった一度ではありますが、ものの見方、考え方、生き方について意見を述べあったり、自分の心の中を覗いてみたりする時間を持つことは、(ボクシングの)ボデーブローのように効いてきます。効いてくると信じています。

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7.「道徳の時間」でねらっていること


 「道徳に時間」は、単に表面に表れた行為を変えることではない。即効性を期待して行われているのではない。「遅刻が多いから、この資料を使って授業をしよう」というのは生活指導(生徒指導)の側面である。

 最終的には「よい心でよい行いをする」ことをねらってはいても、本質的には、「基盤としての道徳性」「内面に根ざした道徳性」の育成がその目的である。……問題にしているのは、表面に表れた行為そのものではなく、行為の向こうにある「心」である。

 「道徳の時間」においては、さまざまな価値項目について「自分はどうであるか?」、自分を見つめるよう指導計画を組む。毎週一時間、コツコツとこれを重ねていく。この繰り返しのなかから、「自分の言動を一歩下がって静かに見つめる」「人の言動を広い心で見守る」「何事もワンクッションおいて見つめる」……という姿勢と培っていく。これが「道徳の時間」の側面である。

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 ここに述べたとおりです。言動の表面的なことだけを持って判断してはいけません。しかし、そこが難しいところです。「人の心は量りがたし」です。鈍感傾向にある私にとって、特に気を付けないといけません。

 そういう意味でも、文学教材を扱う授業や、「道徳の時間」は大事な側面です。

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8.「教え込み道徳」と「内容読みとり道徳」


 「道徳の時間」でよく問題となるのは、「修身的道徳」(=教え込み道徳)と「読解指導的道徳」(=読みとり道徳)である。

 これらは、教師自身はもとより、子ども達を「道徳嫌い」へと向かわせる。「道徳の時間」は、教えられるとか、押しつけられるとかとは無縁の世界である。「道徳の時間」は、人の心を考える楽しい時間である。人の生き方を考える自問自答の時間である。自分の心のありよう、心のレベルを見つめる貴重な時間である。

 「道徳の時間」は、子ども達に道徳を教え込む時間ではない。もともと教師といえども未熟な人間。資料に登場する人物の言動や、言動の向こうにある心について、子ども達とともに考える時間である。さまざまな価値項目に照らして、自らの心を見つめる時間でもある。 ……そういう教師の姿勢がよい授業を生み出す。

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 この部分を取り違えると、「道徳の時間」が一気に窮屈になってきます。

 人は「道徳の時間」で変容するほど単純ではありません。(授業を主導してきた体験者にも関わらず)私の体験では、小説や映画からの方が、よほど影響を受けます。「道徳の時間」を甘く見てはいけませんが、大袈裟に考えないことです。気楽に伸びやかに、……。「道徳の時間」が教科化されるにあたって、私はそのように考えています。

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【蛇足】こういうことがありました。

初任校(大東中)の確か2年目の出来事です。
隣の木次中学校で
「道徳の時間」の公開授業がありました。
3年生、扱う教材は「善いことの恐ろしさ」でした。
私は教室の後ろで参観していました。
途中、私の顔が赤くなり冷や汗が出てきました。
許されない姿の登場人物が
自分の日ごろの言動に重なったからです。
授業が展開する一方で
私は自分を見つめ、密かに恥じていたのです、……。
(価値の主体的自覚)