幼児期に学力の土台を
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2020.1.19(日)


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勉強が得意だとなぜいいのか?


 学力テスト(入学試験)で高得点を目指して頑張る意味は何か、……? さまざまな考え方があると思います。しかし古今東西、私は不易の部分があると考えています。それは自己実現、ゆめの実現です。

 私自身の進路選択の道のりを振り返っても、高校へ送り出した教え子の実情を観ても、行き着く答えは同じです。これに関しては、以前「勉強合宿」に参加した生徒に話しました。それを「コメントの部屋」に書き残してもいます。

〜 話した内容から一部抜粋 〜

2.勉強が得意だとなぜいいのか?

 なぜ、そんなに苦しい思いをしてまで勉強をしないといけないのか? テストの成績がいいと、なぜいいのか?

 率直に言います。「将来の選択肢が広がる」からです。「自分の将来のすそ野が広がる」からです。

 つまり、成績がよければよいほど、選べる高校が増えます。成績がよければよいほど、選べる職業選択の幅が広がります。

 どんなきれい事を言っても、これが今の社会の現実です。性格がどんなによくても、足がいくら速くても、足がいくら長くても、とりあえずはペーパーテストの成績が第一関門としてそびえています。

 ただし、近年、入試や就職試験において、テストの成績や出身校によって選ぶ傾向が少しずつ弱まってきてはいるようです。

 その人のやる気、思考力、創造力、実践力、誠実さなどを重視して選ぼうという動きがあります。

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【蛇足】
文部科学省が
「新しい学力観」の考えを打ち出したり
「ピサ型学力」が取り上げられるようになったりしてから
「学力」の見方・考え方が
違った視点から論じられるようになりました。
「学力観」が広がったとも言えます。
しかし
ここで言う「学力」は
ペーパー試験で計ることができる
従来型の「学力」を念頭に置いています。


 退職後一年間、(特に町外)生徒の募集に関わって、飯南高校に勤務しました。高校を内部から拝見して、「高校における学力向上・進路実績の向上」ということを、改めて強く意識させられました。

 しかしながら、悔しいことに「高校入学時点の成績は、高校卒業時の成績と連動している」という事実です。私の高校時代の同級生がそうでした。これまで高校へ送り出した卒業生の動向を見ても、これはいかんともしがたい事実です。

 高校3年間で、成績がコペルニクス的に向上するケースは、(私の経験の範囲では)ほとんどないと言っても過言ではありません。 ……飯南高校の入学生の成績で、この生徒集団の3年後の進路実績を予測することができるのが実態です。それまでの長い長い積み重ねがあるので、高校3年間では限界があるのです。

 もっとも中学校時代3年間も、ほとんど同じです。むろん、例外はあります。「学習習慣」の有無が、その大きな要因と観ています。

 蛇足ですが、私は多くの子ども達と関わってきて、「生まれつき」とか「遺伝」とかを意識せざるを得ません。特に、スポ小バレーで初心者を指導してきて、持って生まれた運動能力を認めざるを得ません。

〜 過去のコメントの一部抜粋 〜

 スポ小バレーのことを例に挙げます。同じ条件で、同じことを教えた場合、児童によって「のみこみ」の度合い、上達の早さが違うのです。いや、これは人間の世界のみならず、「生きとし生けるもの」共通に見られる現象です。

 例えばアタックを教えた場合、教えた初日から「様」になっている子がいます。そういう子は例外なく、めきめき上達します。その一方で、半年たっても一年たっても、なかなかアタックのコツがつかめない子がいます。別に怠けているわけではないのに、上達がはかばかしくないのです。

 これはバレーボールに限らず、さまざまな事象に現れます。数学や英語など教科の学習もしかり、美術・技術・家庭科・音楽など技能教科においてもしかり、……です。身長や体重など体格的なことも、持って生まれた(人間の力ではどうしようもない)所に影響されています。

 ですから、点数に表しにくい「人柄」「性格」などもそういう一面があると思われます。同じ家庭環境に育っても、活発な子、思いやりのある子、引っ込み思案の子、怒りっぽい子などなど、(育て方以前に)持って生まれた素養を感じることがあります。

 近年クローズアップされている、アスペルガー症候群など「発達障害」にしても、生育環境とともに、持って生まれた素質が医学的に指摘されています。

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子どもは皆天才


 しかし、その一方で私は、従来から「幼児教育」の可能性・重要性に注目しています。「早期教育」として批判もありますが、動物には「臨界期」というものがあります。一輪車など、大人になってからでは手遅れです。

 平成14年度から3年間、小学校1年生〜3年生「国語」の授業を担当し、中学生と比較にならない柔軟性、伸びる素養を体感しました。この頃から、早期教育の可能性を強く意識するようになりました。

 現役時代、中高一貫教育研究視察で訪れた「伊崎田保育園」の実践を目の当たりにし、魂が震えました。まさに目から鱗とは、このことです。

 飯南高校で進路実績を上げるためには、(地元の子ども達には)幼児期から一人一人の能力を伸ばす手だてが不可欠だ。 ……今、こういう思いを抱き、一方では幼児教育に関する本を読んだり、過去に読んだ本を紐解いたり(=付箋方法でファイリングしてあります)しているところです。

   


 『幼児期に学力の土台を』(岸本裕史)

 『今すぐ実践! 小学生からの天才の育て方』(横峯文吉)

 『子どもの頭がよくなる読書の習慣』(樋口裕一)

 『秋田の子供はなぜ塾に行かずに成績がよいか?』(浦野 弘)

 『フィンランド式教育法』(小林朝夫)

 『二歳で本が読める』(公文 公)

 『本当の学力をつける本』(蔭山英男)

 『非行の火種は3才に始まる』(相部和男)

 『頭のよい子はことばで育つ』(外山滋比古)

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 今回は、これらの本の中から、『幼児期に学力の土台を』(岸本裕史)を取り上げ、一部を要約紹介することにします。

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和俗童子訓



 20年前と比べて、小学校で習う勉強は格段に難しくなっています。

 例えば、1年生「こくご」では、(以前は半年かけて習っていた)「ひらがな」をたった一ヶ月で習い終えます。漢字の数も倍増しています。

 1年生「さんすう」についても、(以前は、8+6=14 でよかったのに)二桁の引き算まで課されます。また、以前は4年生で習っていた「84-36」が、2年生でマスターしないといけません。

 この小学校スタート時点で出遅れた子は、そのハンデをずっと背負い込み、中学校の学力にまで影響が及びます。

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 「小学校入学までに、自分の名前が読めるようにしておきましょう。」という言葉を鵜呑みにしていると、手痛い目に逢います。30人学級などという大きな集団にいたら、きっとスタートから取り残されます。

 小田小で新入生4人の「こくご」を担当した私は、当たり前のように「ひらがなの読み書き」ができる児童に驚き、拍子抜けしました。えんぴつの持ち方
(=これがなかなか直らない)と筆順指導で事足りました。

 子ども達にとって、国語の教科書は物足りないくらいです。自然発生的に、本文はすべて全文暗唱。その基盤に立っての読解授業ですから、深度も進度も絶好調です。

 ですから、教科書以外に暗唱教材(毎時間10分間を充てる)として、詩歌・古典など(教科書外から)どんどん導入しました。百人一首など、3時間目には8首を楽々マスターしてしまいます。恐ろしきかな児童期!

 ひらがなから、こつこつと教えていたら、とてもこんな芸当はできません。授業にゆとりがあるということは、能力開発に大きな成果が期待出来ます。

 この子達が、いつ、どんな育ちを経て、入学前に「ひらがな」をマスターしたのかは不明です。が、少なくとも文字のマスターはもっと早い時期でもいいのではないか? と思わされた出来事でした。
(わが子3人の場合は、読み聞かせの流れで読みはマスターして入学。)

 実際、江戸時代の寺子屋では、4歳半頃から文字や計算を学習していたこと、また、何の苦もなくマスターしていたことが、この本「幼児期に学力の土台を」(P39)に紹介してあります。

 併せて『和俗童子訓』(貝原益軒)の本文も、紹介((P35-39)してあります。


 しかるに、凡俗の知なき人は、小児を早く教ゆれば、気くじけて悪しく、只、其心にまかせてをくべし、後に知恵出くれば、ひとりよくなるといふ。是必ず、おろかなる人のいふ事なり。此言大なる妨たり。

 古人は、小児の初めてよく食し、ものいふ時より、早く教ゆ。おそく教ゆれば、悪しき事を久しく見聞きて、先入の言、心の内に早く主となりては、後に善き事を教ゆれども、移らず。

 故に、早く教ゆれば人やすし。つねに善き事を見せしめ、聞かしめて、善事に染み習はしむべし。をのづから善にすすみやすし。

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問題ない子育ての教えは、早めにすることです。

ですが、凡俗で知識の無い人は、こどもを早く教えると、くじけてしまったりして悪くなるので、成長に任せてあとで知恵が出てくればひとりでによくなると言ったりします。

これは、愚かと言うしか無い間違いですよ。

こういうことを言ってはものすごい妨げになります。

昔の人は、子供が初めて食べたリ、ものを言ったりするときからして、早く教えます。

教えることが遅くなれば、悪いことをたくさん見聞きして、先に入ってきた言葉が、心の中で重要な部分を占めてしまい、あとからいいことを教えても、そっちへ行きません。

そんなわけで、早めに教えた方がいいのです。つねにいいことを見せて聞かせて、良いことに慣れるようにしましょう。

自然とよい行いをするようになります。

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子どもにかける言葉



 学力の土台は言語能力にあります。学力の高い子は、語彙も豊富、知識も豊かです。こういう子供は、乳幼児期を通して、親からよく話しかけられて育ってきています。

 戒めないといけないのは、禁止語・指示語・命令語の類の乱発です。親は子煩悩であるべきです。情愛を持って愛想よく受け答えすること、絵本の読み聞かせなどが、子供の健全な発達を促します。高学力への源泉ともなっています。

 父親に深く愛された子は、言語能力だけでなく、運動能力、社会的能力の基礎を培っているのです。

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 言語力の育成が、新学習指導要領の柱の一つです。人類が(他の動物と比べて)圧倒的に進化を遂げたのは、何と言っても「ことばの獲得」です。

 思考力の基盤は言語力です。「高次の情緒力」を支えるのも言語力です。


 「言葉なしの思考」というものは存在しません。言葉を使わずに考えめぐらすことは不可能です。まさに言語力のレベルは、思考力のレベルと比例しています。

 一方、「高次の情緒力」という概念があります。この言葉は、「国語分科会国語教育等小委員会」(平成15年)の議事録で登場しました。高次の情緒力(例えば、他人の痛みを自分の痛みとして感じる心、美的感受性、もののあわれ、家族愛、郷土愛、名誉や恥など)は、後天的に獲得されるものです。しかも、体験を通してというよりは、(教養がそうであるように)「(特に文学作品の)読書を通して培われる」ものとされています。

 さらには、思考をめぐらす基盤となる「語句・語彙力」こそ、高次の情緒力と論理力を根底で支えています。いずれにしても、「読書離れ」は「高次の情緒力」「論理的思考力」の欠如を招くと、この小委員会の報告書で警鐘を鳴らしておられます。

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 「
禁止語・指示語・命令語の類の乱発」については、こういう両親の下で育った生徒との関わりを通して、全く同感です。厳しい仕付けの名の下に、どれだけ幼児・児童の心が傷つけられ、心が病んでいることか、……! 我々大人は、真に戒めないといけません。

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学力の基盤



 読み聞かせをしてもらった子は、文字(言葉)からのイメージ力が育っています。その後の学力の基盤となります。

 ただ、幼児に対する文字指導は気をつけないといけません。教え込んでは逆効果です。あくまでも「遊び」であって、面白さを伴っていないといけません。

 テレビを長時間観る子で、勉強のできる子はいません。テレビっ子は、文字を書いたり計算したりすることを大儀がります。根気も続きません。

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 「伊崎田保育園」の参観を通して感じたことの一つ、それは子ども達が嬉々として学んだり活動したりしていることです。園長先生が言っておられました。「(自学自習一つ取っても)子ども達にとっては勉強ではなく、遊びなんです」。

 テレビの視聴については、学級担任時代も校長時代も、調査結果を示しては「見過ぎ」を戒めてきました。が、それぞれの家庭環境があります。そう簡単に改善されるものではありません。

テレビの時間
平成22年度3学期末
赤来中のデータ
全学年 1年生 2年生 3年生
0〜9分 5 2 2 1
10〜30分 4 2 1 1
〜1時間 13 5 2 6
〜1時間30分 9 3 2 4
〜2時間 14 3 4 7
〜2時間30分 1 1 0 0
〜3時間 8 3 2 3
〜3時間30分 2 1 1 0
〜4時間 6 3 2 1
〜4時間30分 2 2 0 0
それ以上 6 1 5 0


 個性差(家庭差)のばらつき、大きさは、上表の通りです。とうとう学校全体としては改善されることなく(赤来中勤務)6年間が過ぎ去りました、……。

 ふと思い出した一件があります。(当時)2年生男子生徒の母親からの相談です。「わが子がテレビばっかり観て勉強をしない」というのです。聞くと、生徒の自室にテレビがあるとか。さっそく自室から撤去するようアドバイスしました。「怖い怖い」と言っておられましたが、勇気を持って実行されました。 ⇒ 一気に改善。本人にさりげなく尋ねると、さばさばした感じでした。

 こういう習慣形成は、もっと幼少時になされるべきだと思います。学校勤務時代、陰に陽に働きかけても改善されなかった「テレビっ子」の実態に、つくづくそう思います。

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しつけの要



 しつけの要は整理整頓。

 更に、しつけの三原則は、@無限の愛をもって関わる、A子供自身にやらせる(自立)、B継続(習慣化)。

 遊びは活力の源。友とのつながりを育むとともに、へこたれない雑草のようなたくましさを培う。集団生活になじんだ子は、共感能力がある。他人の喜怒哀楽の予想能力が育ち、集団にとけ込める。

 学力が高い、勉強がよくできるというのは、頭がいいとか、素質がいいというのとは、あまり関係がありません。

 勉強がよくできる子は、毎日こつこつと家庭で勉強してきた子です。ちょうど歯磨きや顔を洗うのと同じように、毎日毎晩こつこつと勉強してきた子が、高い学力を身につけていくのです。

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 冒頭の主題(早期教育)とずいぶんズレてしまいました。要は、乳幼児期から「母の愛は海より深く、父の愛は山より高し」の精神で、わが子に温かく関わっていくことだと思います。

 そういう流れの中で、強制ではなく、遊びの一環として「文字」や「言葉」と出会わせてやる。これが一つのポイントと読みとりました。

 その具体的な実践例(成功例)が、横峯式幼児教育という認識が今、私の中にあります。

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