叱責か激励か?
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2019.9.15(日)


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前回は
著書『非行の火種は3歳に始まる』を紹介しました。
「幼児期の溺愛がわがままを助長し
我慢する力や耐性を欠如させ
その上に暴力が加わると
少年を非行へと走らせる。」



 今回は
すでに非行に走ってしまっている少年に対して
では
どう関わっていったらいいのか?
について述べることにします。


〜以下は、相部和男著『非行の火種は3歳に始まる』(PHP文庫)からの引用です。〜






要約抜粋
非行を犯したときには?


 非行の度に懲罰が加えられると、教育者自身が良心の代行をすることになり、子どもの良心は窒息してしまう。

 叱らずに「いたわりと理解」を示すと、子どもは誰にも咎められないので、今度は自分の良心が自らを裁くようになるのである。叱らぬ教育が、子どもの良心を濃厚にするのである。

 教育は、子どもに裏切られたときが、子どもの心をつかむ最大のチャンスなのである。このとき、教育者が取り乱してはならない。3度裏切られ、5度裏切られても、なおかつ子どもの中に宿る「善」なる本性を見つめうる人でなければ、非行少年の味方になることは出来ないであろう。

 愛には、限りない忍耐が必要とされる。しかし、叱りたいけれども我慢するのであっては、本物ではない。自然に叱らなくなる心境にならなければ、問題児の再教育は困難である。

   急いではいけない!
   構えてもいけない!
   待つことだ!
   祈ることだ!

 これは、あるケースワーカーの言葉である。

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叱責と懲罰か
賞賛と激励か



 幼児期に溺愛されて、自らの欲求をコントロールできなくなり、お金や物がほしいと思えば、すぐに盗みに走ったこの少年の場合も、愛の不足感から愛の象徴であるお金や物を盗んでいたのである。

 懲罰は憎悪の象徴されたものであり、懲罰が加えられると、また盗みを繰り返さざるを得なかったものと解される。

 ところが島本君(BBS会員=後述:26歳)は盗まれたとき、叱責や懲罰を加えずに、励ましとお金を与えた。これは、無意識内にある「愛の不足感」を充足させたことになり、少年と島本君との間にラポール(親近関係)を形成する契機づけとなった。

 加うるにK保護司が、カウンセリングマインドで受容的な接触をすることを通して、本人のよい面を引き出した。また、叱責の代わりに賞賛と激励を与え、常に少年を精神的にサポートしてきた。これが、本人の更正に大きな力になったと考えられる。

 一方、ファミリーカウンセリングによる保護者の態度の変容、及び、職場での快適な環境づくり、地域ぐるみで少年を温かく見守ったことが、いかに更正に役立ったか、この事例は幾多の示唆を含んでいる。

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※ BBS会員=非行少年の友達になって、その手助けをする役目の人。



父の暴力は
反社会的な行動へ走らせる



 非行少年のほとんどが、父に対して敵意・反感・憎悪を持っている。それが権威への反抗と結びつき、反社会的な行動へと走らせている。

 だから、子どもが言うことを聞かないからと言って、父親ばかりが「叱り役」を引き受けると父と息子との間に、埋めることの出来ない亀裂を作っていくことになる。

 反対に非行少女は、母親との関係がうまくいっていない場合が多い。

 尊敬すべき両親のもとで健やかに育った場合は、息子は思春期に達すると、多くの異性の中から母とよく似た人を選ぼうという心理機制が起きがちである。一方、娘は思春期に達すると、父に似た人を選ぼうとという心理機制が起きがちになる。

 これは、エディプスコンプレックスを乗り越える、最も理想的な形だろう。

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白鳥芦花(ろかに入る
〜教育は芸術なり〜



 白鳥が白い(あし
の花畑に舞い降りる。白鳥が羽ばたくたびに、芦の花がゆらりゆらりと揺れる。しかし、遠くから見ていると、風もないのになぜ、芦の花が揺れるのか分からない。

 今度は、烏が芦の花畑に舞い降りて羽ばたいた。芦の白い花が揺れると、烏が原因だと、誰の目にもはっきりと分かる。

 教育というものは、親や教師が子どもの線まで下りて、ともに歩みながら、子どもとともに自然に高まっていくという姿が、最も理想的である。

 親や教師がデンと高いところに君臨して、何とか子どもを高いところに引っ張り上げようとするのは、“カラス芦花に入る” やり方である。

 笑顔の絶えない明るくユーモアにあふれた家庭で、いつも子どもとともに汗水を流しておれば、高いところに居座って説教したり、叱責したりする必要はないのである。

 子どもを叱る場合も、愛として感じ取れるような叱り方ならば効果があるが、子どもが恐怖や反感を持つような叱り方は、マイナス以外の何ものでもない。

 案外、子どもを叱る場合、感情的に一方的に、自分が気にくわないから怒りまくるといった場合が多い。そうではなく、こう言えば子どもはどういうふうに受け取るかなと、子どもの立場に立ってものを言わなくては意味がない。

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大前提となる人間関係づくり


 私の教員生活の中で「指導が困難な生徒」[=注意を聞こうとしない、ルールが守れない、自分勝手な行動をする、すぐカッとする(すぐムカつく)、悪態をつく、教師に楯突く(反抗する)……など]が何人かいました。

 そういう生徒を担任したとき、例外なく4月当初は、まず私の言葉を聞く耳がありません。注意しても無視するか、暴言や捨てぜりふを吐くか、……。とにかく正常な会話が成り立たないのです。

 それはなぜか?

 彼らとの人間関係、信頼関係が出来ていないからです。「偉そうに、……!」、「おまえの言うことなんか聞く義務はない」、「勝手にしゃべってろ!」、……。

 T中学校(650名)勤務時は、例えば校庭を土足で走っている生徒を見かけて注意すると、注意された生徒はまず立ち止まります。こちらを見ます。

 そして、特に授業・部活動などで関わりがない教師と認めたら、再び注意を無視して走り出します。ところが、(人間関係が出来ている)学級担任の生徒の場合、立ち止まったあと「すみません」とか言って謝り、すごすごと校舎の方へ戻ってきます。一般的な生徒ですらそうです。「指導が困難な生徒」の場合は、なおさらです。

 ということで、「日本語が通じる」(=注意したことが相手に伝わる)ために、何はさておき「人間関係づくり」が大前提となります。まずは、相手(生徒)を自分の懐に入れないことには、何事も始まりません。ところが、これがなかなか難産です。紆余曲折、山あり谷あり深みあり、……。


怒鳴るけどオマエはそんなに偉いのか?!

 相部和男氏は、「
親や教師がデンと高いところに君臨して、何とか子どもを高いところに引っ張り上げようとするスタンスでは、成果が上がらない」と言っておられます。

 また、「
カウンセリングマインドで受容的な接触をすることを通して、本人のよい面を引き出した。また、叱責の代わりに賞賛と激励を与え、常に少年を精神的にサポートしてきた。これが、本人の更正に大きな力になった」とも述べておられます。

 更に、「
叱らずに、いたわりと理解を示すと、子どもは誰にも咎められないので、今度は自分の良心が自らを裁くようになるのである。叱らぬ教育が、子どもの良心を濃厚にするのである」と、断言しておられます。

 氏自らの豊富な体験・実践に基づいた結論なので、説得力があります。これまでの教員生活を振り返って、なるほどと頷けます。

 しかしながら、ではこの通り実行に移せるか? というと、現実はなかなか厳しい。元々教師である自分は、意識的無意識的に「せんせい」という衣を身に(まとっています。生徒と対峙(たいじしてプライドもあります。そう人間が出来ているわけでもありません。

 それに、「指導が困難な生徒」は、これまで長い時間をかけて「今日の姿」があります。「アマラとカマラ」ではありませんが、あらゆる面で「臨界期」を通り越して、今ここにいます。昨日今日の関わりで、「はいそうですか」というわけにはいきません。


先用後利

 日本には、昔、「先用後利」 という言葉がありました。これが、商人道の基本でした。

 その意味は、「本当の商売とは、人間と人間との結びつきを前提にしなければならない。商売(ものを売って儲ける)よりも、まず、相手と心を通わす(好かれる・信頼される)ことを考えなくてはならない」 ということのようです。

 学校における、教師と子ども・保護者との関係も、これと同じではないでしょうか?

 先生の言葉が子ども達の心にひびき、子ども達のよさが引き出される教育。これが成立するための必要十分条件として、「教師は、子ども一人一人を心から思いやり、子ども達は先生を慕う」という人間関係が必要だと思うのです。

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要約抜粋
【巻末の解説】
平井信義(大妻女子大学教授)より

 無責任な親のもと育てられ、傷やしこりで苦しんでいる子ども達に接するたびに、西ドイツのシェッファーの言葉(責任感ある者のみが子供を作るべきだ)を思い出します。

 すでに非行を犯している少年少女にあっては、どうしても「親代わり」になるような人が必要です。

 保育所の保母(=現在の呼び名は保育士)が「思いやり」のある人で、その人が可愛がってくれたために非行に走らずに済んだ。保母になる決心もした。そういう人もいます。

 ぐれだした中学生が、自分の「よさ」を褒めてくれる教師に出会って、自分のような者を認めてくれる人の存在によって、立ち直った実例もあります。

 子どもに接する者、「思いやり」がいかに子どもを救っているかについて、沢山の経験をしてきました。特に非行児について、そのことが言えます。

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指導者はいつでも自分自身との闘い

 生徒は(特に指導が困難な生徒は)敏感です。「この先生は、本当に自分のことを思ってくれているのか? 表面上だけか?」については、動物的な触覚を持っています。実に敏感で、的確です。逃げ隠れできません。

 ですから、「指導が困難な生徒」に関わるに当たっては、私はいつも自分の心をのぞき見していました。もし「いとおしい」「可愛い」という思いが自分の心の中になければ、それはあらゆる関わり(言動)は徒労に終わると思っていました。

 自分自身との戦いでもあります。自分自身の人間性が試されているのです。本気で関わろうとすれば、相手を変えようとする前に、自分が変わらなければ成果は得られません。

 そういう意味で「教師」とは、(教科指導を除いては)「教える先生」ではなくて、「ともに学び、ともに成長する人」と言えます。


指導が困難な生徒は被害者なんだ

 それにしても、いつも思います。「指導が困難な生徒」は、いつでもどこでも被害者です。本人が悪いわけでは決してありません。私自身がこの環境の下に生まれ育っていたら、・・・と考えると、人ごとではありません。

 暴言を吐かれて腹が立つことがあれば、「この子は被害者なんだ」と、自分に言い聞かせるように心がけてきました。そうすると不思議と冷静になれ、本人がとてもいとおしく思えてきます。

 なお、「指導が困難な生徒」は、その背景に家庭があります。何と言っても色濃く影響を与えているのは、家族(父母)です。ここが変わらなければ、生徒の変容は期待できません。

 しかしながら、この微力な教師に何が出来るのか?

 まして、相手の家庭に土足でずかずか乗り込むことは出来ません。しかも、保護者といえばすでに人間としては、ほぼ固まっています。これを変えようなんて、それは初めから無理な相談です。


クモの糸

 ただ、関根正明氏(元武蔵野音楽大学教授)は言っておられます。

 「相手を変えることは、それは不可能だ。でも、相手との人間関係は変えることは、それは可能である」。

 相手(保護者)を変えることは、もともと無理難題。教師が出来ることと言えば、該当生徒に対して誠心誠意関わっていくこと。そういう積み重ねを通して、該当生徒の「心の琴線」に触れること。

 そうひたむきな積み重ねが、やがては該当生徒の保護者との信頼関係に繋がっている。そこから何かが始まっていく、……そう信じるしかありません。・・・・・これが “クモの糸” です。

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表面上は全く一緒でも、……

○ 相手のことを心から思い、関わっていく。 ⇒該当生徒の心の琴線に触れる。
● いやな奴だが、指導はしっかりしていこう。 ⇒該当生徒の心は決して開かない。