2019.9.8(日)

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「非行の火種は3歳に始まる」(PHP文庫)を読んで
子育てと青少年非行との関連について
考えさせられました。
この度は
著書の内容を一部紹介することにしました。
著者
相部和男 氏
少年院[法務教官]として12年、保護観察所[保護観察官]20年。合計32年間にわたり非行少年や犯罪者として苦楽を共にし、約1万人あまりの非行少年と関わってきておられます。ですから、言葉(内容)に重みと説得力があります。
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不良少年は一人もいない
著者の結論は、「不良少年は一人もいない。みんな不幸少年なのだ」。また、このキーワードと関連して、次のようにも述べておられます。
「どんな非行少年でも、生まれたときは無地である。非行の殻を付けて生まれてくる子供はいない。その無地な子どもが非行少年になっていくということは、何と言ってもその子どもを育てた“親に問題”
がある」。
エピソード(実話)を中心に話は進んでいきますが、筆者の思考図式(要約)は下記の通りです。
幼児期に溺愛された者は、例外なくわがままになる。
⇒ 子どもがわがままになって手に負えなくなると、親はガミガミ叱る。
⇒ ガミガミ言っても聞かなくなると、親は暴力で従わそうとする。
⇒ 親の暴力は、家庭の雰囲気を悪くする。
⇒ 家が面白くなくなると、子どもは外に はけ口を求める。
⇒ 外で心の拠り所を探していると、不良交友が始まる。
⇒ 不良交友をとおして、非行に走ることが多い。
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要約抜粋
溺愛されて育った子の更正は難しい
私は現在、登校拒否の子どもの相談を多く受けているが、登校拒否の子どもは、一人の例外もなく幼児期に溺愛されている。つまり、学校で教師とうまくいかない、級友との人間関係がおもしろくない、勉強に付いていけない……ということだけで登校拒否に発展していく。
幼児期に甘やかされた子どもは、我慢する力がない。耐性がないからである。
私はこの36年間、いろいろな生い立ちの非行少年と接してきたが、愛情飢餓から非行に走った少年は、愛情を傾ければ更正への道は、案外容易に開けていった。
しかし、幼児期に甘やかされた子は、いかに周囲が愛情を傾けても、まず「ありがたい」という感情がわかない。だから、なかなか治りにくい。そういう幾多の現実の壁にぶち当たってきた。
幼児期に溺愛した保護者の割合は、母が70%、祖母22%、父母4%、父2%、祖父母1%などである。(調査総数 6,450人、昭和27〜62年)。
一方、家庭内暴力の被害者は、(昭和62年の犯罪白書によると、)皮肉なことに、我が子に愛情を注ぎ(たとえそれが謝った溺愛であったにせよ)、一番苦労した母親が第1位で、62%も占めている(2位は、父の12%)。こんな引き合わない話はない。
幼児期にわが子を溺愛した母親は、今度はその子が成長し、思春期に達したら、我が子から殴られるのである。
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穂積隆信さんの叫び
『積み木くずし』の著者、穂積隆信さんの一人娘由香里さんは、幼児期に甘やかされたので、わがままであった。積み木の土台が出来ていないので、いくらその上に積み木を重ねても、もろくもその積み木は崩れてしまった。
「幼児期に・・・・・・人格の土台が出来る大事な時期に、どうか甘やかさないで!」という、穂積隆信さんの声が聞こえる……。
非行の火種は幼児期に作られる。一万有余人の非行少年の62%が、幼児期に溺愛されているというこの事実に今一度、刮目してほしい。
世の親たちは幼児期に甘やかすことに、それほどの危機感を持っていない。それは、甘やかしてもすぐそれが、非行とか犯罪に結びつかないからである。
非行や犯罪が出るのは、5年後、10年後、15年後、20年後、あるいは40年後の場合だってある。重ねて言うが、その火種は幼児期の甘やかしによって作られるのが、大半なのだ。
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著者:相部氏は32年間にわたり、約1万人あまりの非行少年と関わってきておられます。豊富な指導歴をお持ちです。
相部氏は、すべての根元は「幼児期の溺愛」と断定しておられます。そして非行に至る場合は、その後における「親の暴力」と言い切っておられます。
私は現役時代、支援を必要とする生徒に関わるとき、「乳幼児期の親子関係」「育てられ方」などにとても関心がありました。が、その領域に踏み込む勇気はありませんでした。
もっとも生育歴に踏み込んでみたところで、それで解決がつくわけでもありません。一期一会です。失われたときは、二度と戻っては来ないのです。
大事なのは、今ここに生きてある生徒の姿です。将来を見据えて、いかに関わっていくべきかという「教育者(教師)」としてのありようです。このことについては、(今回長くなりすぎるので、)次回に譲ることにします。
いずれにしても、「幼児期の溺愛」こそがガンとのこと、ましてわがままに育って言うことを聞かないので「暴言」を吐いたり「暴力」をふるったりするなど、もってのほか。 ……相部氏は多くの事例から、こういう図式(事実)がはっきりしていると断言しておられます。
私の教員生活の中で「指導が困難な生徒」[=注意を聞こうとしない、ルールが守れない、自分勝手な行動をする、すぐカッとする(すぐムカつく)、悪態をつく、教師に楯突く(反抗する)……など]の生徒が何人かいました。それらの生徒は、幾人かがこぼしていたことを思い出します。成長の過程で「父親(母親)から暴力・暴言を受けてきた」と……。
統計的ではありませんし、どの生徒からも幼児・児童期の親子関係を聞いたわけでもありませんので、「親の暴力と非行」の関連性については分かっていませんでした。
でも、「幼児期の溺愛こそがガン」「言うことを聞かないので暴言・暴力で子どもを押さえ込む(支配する)と、子どもは非行に走る」については、これは乳幼児期の子どもさんを抱え、育児に当たっておられる世のご家族の皆さんに、ぜひぜひ伝えるべき重大事です。
もっとも、すでに子どもさんの非行や不登校で、今現に悩み苦しんでいる親御さんにとっては、こういう忠告は「弱り目に祟り目」「泣きっ面に蜂」です。その点については、本当に申し訳なく思います。
でも、非行少年や不登校の子どもに接してきておられる、専門家の言葉です。一つ一つに重みがあります。説得力があります。
これからどんどん育っていく、宝物(青少年)が健全に育っていくためでもあります。勇気を持って、乳幼児期の子どもさんを抱える親御さんに伝えていく必要があります。
なお、「すでに指導に苦慮している子ども」にどう接していったらいいのか、どう指導すべきかについては、次回に譲ることにします。
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溺愛とは
溺愛とは、「むやみにかわいがる」こと。
「相手を客観的に見ることができずに、盲目的にかわいがること」という意味です。
盲目的とは「理性的な判断が出来ないさま」という意味の言葉。
溺愛と同じ意味の言葉に「盲愛(もうあい)」という言葉がありますが、
この言葉に使われている文字は「盲目的」の「盲」です。
要するに、理性を失うほど過度にかわいがることを「溺愛」や「盲愛」と言います。
溺愛を漢字で見てみると、
「溺」は「心を奪われ、他をかえりみない」という意味をもっており、
「愛」は「かわいがる」という意味をもっています。
したがって、これらの漢字を合わせた「溺愛」という言葉は
「むやみにかわいがる」という意味を持ちます。
蛇足
器を大きくする
「三つ子の魂百まで」と言いますが、乳幼児期の姿が人生の基盤となって一生を左右することは、諺になるほど経験的に認識されています。
ものの見方、考え方、性向、人となり、人格、性格、個性、人柄、気質、気だてなど、一人の人間の姿を表現する単語が幾つもあります。「魂」は、これら全ての単語を包括していると思います。
魂と並んで「学力」についても「三つ子の魂(脳力)百まで」という一面があります。
小学校に入学すると、怒濤のように学習が始まります。しかし、そのスタート時点で「学力の基盤」に個性差が歴然としてあります。「学問を取り込む『器の大きさ』」と言い換えることも出来ます。
飯南町では毎年4月、全国学力状況調査(小6と中3)と同時展開で、小学校2年生[小6は除く]〜中学校2年生)を対象に「全国標準学力調査」を実施しています。
数年前から始まっていますので、経年変化を観ることが出来ます。小2(4月)段階で全国平均より上位の学級集団は、概ね基本的にその後も平均以上を歩み続けます。その逆も同じです。
児童一人一人の経年変化を辿っても、同じ傾向が見て取れます。
「学問を取り込む『器の大きさ』」を鍛える方法は幾つかあると思いますが、伊崎田保育園の理念と実践は一つの指針になると、私は注目している一人です。
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24.03.25(日) やる気のスイッチを入れる!
22.12.12(日) 子どもは皆天才!(横峯式幼児教育)
「三つ子の魂百まで」とは
三つ子の魂百までとは、
幼い頃の性格は、年齢を重ねても変わらないという諺(ことわざ)です。
「三つ子」とは、生後3歳の子どもという意味ですが、
三つ子の魂百までの「三つ子」は、「幼い子ども」全般を指しています。
「魂」は、「性格」という意味で、
心・知恵・根性など解釈されることもあります。
「百まで」は「百歳まで」という意味です。