天知る 地知る 己知る
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20.5.4(日)


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先日
所用で校長室へやってきた
かつての教え子が
「先生がいつも言っていた
“天知る 地知る 己知る” は、
今でもちゃんと覚えていますよ」
と言ったのには驚きました。
今日は11時集合で
その当時のクラスメートが母校に集まり、
卒業二十周年を記念する同窓会があります。
これから私も出かけます。
今回はこの言葉について
コメントを述べることにしました

誹謗中傷を含めて


 天というのは、天の神様です。地というのは、地の神様です。己というのは、自分(自己)という意味です。

 人に見つからなかったらいいとか、人が見ているからやらないとか、そういうものの見方・考え方は、これは堕落への道です。

 たとえ見られていないと思っても、ちゃんと見ている人(?)があります。それは「神様」です。そして、必ず見ているのは、自分自身です。

 悪いことをしている自分、それを見ている自分。人の陰口(悪口)を言っている自分、それを聞いている自分、……。強烈です。最悪です。確実に心が腐ります。

 「天知る 地知る 己知る」

 これは、私の大事にしている言葉の一つです。

 万引きが出来る環境にあるけど、自分は決してしない。
 カンニングをやろうと思えば出来るけど、自分はしない。

 そういう積み重ねが、自分を人間として育てます。

 かくいう自分自身はどうかと振り返ってみると、聖人君子ではありません。ごまかしたり、嘘を言ったり、ずるをしたり、……。そういうことが皆無というわけではありません。でも、確かに担任した生徒には、ことあるごとに語りかけてきた言葉(精神)です。自分自身にも語りかけていることは確かです。

 人が見ていなくても、善行を行った。人が見ていなくても、(出来る環境にあったのに)悪いことをしなかった。 ……そういう自分を認めるときは、密かに自画自賛をしている私です。逆に、「ついつい……」という自分を認めたときは、自己嫌悪に陥ります。

 いずれにしても、「天知る 地知る 己知る」を意識して日々生活するのと、無為に(無意識に)その場限りで生き抜いていくのとでは、大きな違いがあると思います。

 人の陰口を言う。これも、立派な背信行為です。「天知る 地知る 己知る」と通じるところがあります。「陰口」の定義が問題ではありますが、自分がそういう目にあったときは、人間不信に陥ってしまいます。「面従腹背」ではありませんが、日頃の顔と蔭の顔との落差を知ったときの人間不信は、(日頃信頼していただけに)ガクッときます。

 「壁に耳あり、障子に目あり」は、よくぞ言った言葉です。回り回って伝わった背信行為(言葉)は、相手への不信感を増幅します。

 そういう意味で、「学校評価」に出てくる「匿名投書」まがいの内容、表現は、まだましなのかも知れません。いや、これとて「相手が特定できない」のですから、「陰口」と大差ありません。世に言う「誹謗中傷」の(たぐいです。

 少なくとも、教え子の心に届いて今も息づいている「天知る 地知る 己知る」。嬉しく思いました。とともに、教え子に語りかけた責任を、しっかりと自らに課さないといけないことを再確認しました。

 ちなみに、勤務校では、(2年前)陰に隠れて自転車にいたずらをするという出来事が続発しました。断じて許せない行為です。被害者は、「なぜ?」、「誰が?」と考えただけで、震え上がる思いです。相手が分からないほど無気味なことはありません。

 この許し難い出来事を前に、校長として(全校朝礼で)全校生徒に訴えかけたキーワード、これが「天知る 地知る 己知る」でした。おかげさまで、この時を境に、この種の自転車へのいたずらがパタッと止まりました。生徒の心の琴線に触れたことを、心から嬉しく思った全校朝礼です。

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18.06.19 全校朝礼 「天知る 地知る 己知る」


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