@ チンギス・ハンが「モンゴル帝国」を作って以降、モンゴル軍は破竹の勢いで勢力を拡大していきました。そして、あっという間に朝鮮半島の「高麗(今の韓国)」に攻め込んでいきました。国力が弱かった高麗は耐え切れず、ついにモンゴル帝国に投降します。その後、クビライはさらに「日本」への征服を決意し、高麗に対して6カ月以内に900隻の船を建造するよう要求しました。
A 1274年、3万人のモンゴル・高麗連合軍は10万人の兵を集めた日本軍と対決しました。連合軍は、日本軍より優れた武器を使って一気に優位に立ちましたが、日本軍を壊滅させるには至りません。日も暮れたので、いったん船に戻って態勢を整えることにしました。ところが、その夜に襲来した台風によって元軍の船は、大半が瞬く間に海中に沈み、日本征服は失敗に終わりました。これを「文永の役」と言います。諦めきれないクビライは 1281年、再び日本に攻め込みます。が、再び台風に見舞われて船が破壊され、大失敗に終わります。これを「弘安の役」と言います。
B 日本では、モンゴル帝国との戦いは『神風』が勝利をもたらしたと信じる人がいます。しかし、池田栄史教授(考古学者)がモンゴル船の残骸をコンピュータ分析したところ、船の多くは著しい手抜き工事が行われていたことを発見しました。池田教授は、「実際は高麗人がモンゴル人に対する報復のために手抜きの船を作ったことが、元軍が壊滅した原因ではないか。」と分析しています。