パレスチナとイスラエル
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2015.01.13(火)


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小学生の大疑問
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全体像













パレスチナ自治区


 イスラエルとパレスチナ自治区の現在の状況(地図)です。

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コメント
ニュースや新聞に
ときどき登場する地図です。








パレスチナ王国


 2000年前、ユダヤ人が暮らすアラビア半島の「パレスチナ王国」へ、ローマ帝国が侵攻してきました。武力で土地を奪い取ると、ユダヤ人を国外に追放しました。以後、ユダヤ人は国土を持たず、ヨーロッパ各国へ散らばって暮らすようになりました。その後、このあたりにはアラブ人が住むようになり、パレスチナと呼ばれるようになりました。

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コメント
ローマ帝国の侵攻が
そもそもの発端です。
ヨーロッパ各国へ
ちりぢりになったユダヤ人のうち
ドイツでは600万人もが
大量虐殺にあいました。









イスラエルの建国


 第二次世界大戦後ユダヤ人は、2000年前に王国があったパレスチナにユダヤ人の国をつくろうと考えました。ユダヤ人が、特にドイツでひどい目にあったことを知った世界の人たちも、ユダヤ人に同情しました。

 しかし、パレスチナにはアラブ人が大勢住むようになっていました。ここにユダヤ人の国をつくったら混乱が起きます。そこで国連は、パレスチナに「ユダヤ人の国」と「アラブ人の国」をつくる案を決めました。ただエルサレムだけは、ユダヤ教を信じるユダヤ人にとっても、イスラム教を信じるアラブ人にとっても聖地なので、国連が管理することにしました。

 国連の案にもとづいて1948年、ユダヤ人たちはイスラエルという国をつくりました。まわりのアラブ人たちは、自分たちの土地に別の国ができたことに怒って、イスラエルを攻撃しました。これが「中東戦争」です。この戦争は、大きなものだけでも4回も続きました。この戦争の結果、イスラエルは、国連が決めた「アラブ人の国」の地域も全部占領してしまいました。

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コメント
悲劇です。
両者ともに言い分があります。
間違ってもいません。
正論と正論とがぶつかって
決着しなかったら
残る手段は
悲しいかな武力です。

国連の案も
どうでしょうか?
イスラエル寄りと取られても
致し方ないように思えます。









今も紛争中


 一方、自分たちの土地から追い出されたアラブ人たちは、パレスチナに住んでいたので、パレスチナ人と呼ばれるようになりました。この人たちは、自分たちの国をつくりたいと考え、イスラエルと争いを続けてきました。

 この争いでも大勢の人が亡くなったり傷ついたりしたため、なんとか平和を築き上げたいと話し合いが行われ、イスラエル軍が占領している土地のうち、パレスチナ人が多く住んでいるヨルダン川西岸地区とガザ地区をパレスチナ人に返しました。この地区を「パレスチナ自治区」です。しかしながら、現在も両者は紛争を続けています

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コメント
日本人的な発想で
第三者的に見れば
「ユダヤ人の国」と「アラブ人の国」
としないで
この際両者仲良く
一つの国に平和に暮らしたらいいのに。

しかし
民族・宗教など
日本人的な発想では
割り切れないものがあるようです。
厳然としてあるのです。






教材
上級編


@ 2000年前、ユダヤ人が暮らすアラビア半島の「パレスチナ王国」へ、ローマ帝国が侵攻してきました。武力で土地を奪い取ると、ユダヤ人を国外に追放しました。以後、ユダヤ人は国土を持たず、ヨーロッパ各国へ散らばって暮らすようになりました。その後、このあたりにはアラブ人が住むようになり、パレスチナと呼ばれるようになりました。

A 第二次世界大戦後ユダヤ人は、2000年前に王国があったパレスチナにユダヤ人の国をつくろうと考えました。ユダヤ人が、特にドイツでひどい目にあったことを知った世界の人たちも、ユダヤ人に同情しました。

B しかし、パレスチナにはアラブ人が大勢住むようになっていました。ここにユダヤ人の国をつくったら混乱が起きます。そこで国連は、パレスチナに「ユダヤ人の国」と「アラブ人の国」をつくる案を決めました。ただエルサレムだけは、ユダヤ教を信じるユダヤ人にとっても、イスラム教を信じるアラブ人にとっても聖地なので、どちらかのものにしないで、国連が管理することにしました。

C 国連の案にもとづいて1948年、ユダヤ人たちはイスラエルという国をつくりました。まわりのアラブ人たちは、自分たちの土地に別の国ができたことに怒って、イスラエルを攻撃しました。これが「中東戦争」です。この戦争は、大きなものだけでも4回も続きました。この戦争の結果、イスラエルは、国連が決めた「アラブ人の国」の地域も全部占領してしまいました。

D 一方、自分たちの土地から追い出されたアラブ人たちは、パレスチナに住んでいたので、パレスチナ人と呼ばれるようになりました。この人たちは、自分たちの国をつくりたいと考え、イスラエルと争いを続けてきました。

E この争いがとりあえず決着したのは、1993年の「オスロ合意」です。イスラエル軍が占領している土地のうち、パレスチナ人が多く住んでいる「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」をパレスチナ人に返すことになったのです。この地区を「パレスチナ自治区」と呼んでいます。しかしながら、現在も両者は紛争を続けているのです

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コメント
教材として持ち出すのには
少し文章が長いようです。

また
歴史か公民で学習すると思います。

個人的には
教養の一つとして
ぜひ了解しておいてほしい
魔のスポットの一つです。