沖縄の独立運動
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2014.11.7(金)


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全体像
前半






教材
上級編


@ 関ヶ原の戦いから9年後の1609年、薩摩藩(今の鹿児島県)は「琉球王国」に3,000名の軍隊で進軍しました。琉球王国は必死に抵抗したものの敗れ、以降、琉球王国は「琉球藩」として薩摩藩の支配下に組み入れられました。ただし、この間、琉球は中国の朝貢国(中国に服従していた)だったので、琉球は日本の一部とみなされることもなく、琉球人は日本人ともみなされませんでした。

A しかし、やがて明治維新により成立した日本政府は、1879年(明治12)琉球に軍隊を派遣し、首里城から国王を追放。ここに琉球王国は滅亡し、明治政府は「沖縄県」の設置を宣言しました。琉球王国消滅に不満を抱いていた沖縄の人たちは、「脱清人」として琉球王国と親密な関係にあった「清国」(今の中国)に亡命。清政府に「琉球王国の再興」を働きかけました。しかし、1894年に始まった日清戦争で、清が敗北。これによって、独立運動は自然消滅していきました。

B 1945年、太平洋戦争が終結。日本を統治した「GHQ」(連合国軍最高司令官総司令部)は、沖縄県を日本から分離し「信託統治領」としました。背景には「沖縄はもともと琉球王国であって、日本ではない」という意識が米国側にありました。これによって、沖縄では「琉球国復興」の期待が徐々に高まり、再び琉球独立運動が始まりました。
※ 信託統治 =国際連合の依頼を受けた国が、国連による監督のもと、非独立地域(ここでは沖縄)を治める制度。

C 1950年代に入ると東西冷戦時代に突入、アメリカにとって沖縄の軍事戦略上の価値が高まりました。これによって「沖縄の独立」を考えていた米国は、「沖縄の軍事拠点維持」へと変更。米軍による軍用地接収などが始まり、「琉球国復興」という沖縄県民の期待は裏切られることになりました。

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コメント
沖縄は昔から日本の領土と
当たり前に思っている生徒が
少なくないと思います。

ところで
赤来中学校では
2年生の修学旅行(12月上旬)の
行き先が沖縄です。
贅沢な話ですが
平和学習の一環として
小学校は広島
飯南高校は台湾
その流れを汲んでいます。

そこで
あえてこの苦難の歴史の
必要最低限の情報を得て
出掛けていってほしいと願って
この教材を作りました。




蛇足
18.05.21(日) 修学旅行


沖  縄
 修学旅行
12/1〜4












後半






教材
上級編


@ 1950年代に入ると、米ソを中心とする「東西冷戦時代」に突入しました。太平洋戦争後、沖縄県を日本から分離し「信託統治領」(アメリカの統治下)としていた米国は、冷戦時代に伴い沖縄を軍事拠点にすることを決定。米軍による沖縄の軍用地化が始まりました。「アメリカの信託統治後は、琉球国の復興を!」と望んでいた沖縄県民の期待は、裏切られることになりました。
※ 信託統治 =国際連合の依頼を受けた国が、国連による監督のもと、非独立地域(ここでは沖縄)を治める制度。

A この後、米国による強制的な軍用地没収、度重なる米軍による犯罪などにより、米軍への反感が高まり、沖縄では急速に「日本への復帰」を望む声が高まっていきました。琉球民族の解放を願い、沖縄独立支持を表明していた日本共産党や日本社会党も、「独立」から「復帰」へと運動方針を変更。こうして独立運動は復帰運動へと移り変わっていったのです。

B ところが、1972年の沖縄返還が近づいてくると、再び沖縄独立運動が叫ばれるようになります。復帰の交渉過程において、日本が米軍の要求を丸飲みしたことへの日本不信と、復帰後も米軍の影響力が維持(米軍の軍事基地はそのまま)されることへの反発があったからです。

C けっきょく、本土復帰後は沖縄独立運動は表だっては行われなくなりました。しかし現在、国政で「道州制」が議論されています。この実現を機会に、大幅な自治権を獲得しようという動きもあります。なお、中国共産党の機関紙「人民日報」では、沖縄はかつて中国の支配国であったが、日本が武力で奪い取ったと主張。つまり、「沖縄は中国のもの」という考え方を展開しています。

【参考資料】琉球大学・沖縄県民電話意識調査(2007年)
      ◇「日本人ではなく沖縄人である」=41.6%
      ◇「沖縄は独立すべきだ」=20.6%

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コメント
沖縄の皆さんにとって
独立運動もですが
アメリカ軍基地の問題が
大きな課題として
横たわっています。

そして
悲惨な戦場となった
沖縄戦。
忌まわしい記憶です。

生徒の皆さんには
その一端を
しっかりと学んで帰ってほしいと
強く願って
11月18日(火)
要約学習に出掛けます。