23.3.20(日)
最初の部屋へもどる
校長昇任校(君谷小)4年勤務が終わり 地元の学校へ 舞い戻ってきました。 母校(=来島小)ではありませんが 距離的には母校と同じ約3Kmに位置する 小田小学校です。
感激した校歌斉唱
校長初任地の在任は4年間、これが当時、(県教委から)課せられた勤務年数となっていました。教諭時代には、叶う叶わないは別として「異動希望」を出し、配慮してもらえるのが教員人事です。その点、校長・教頭は「上司一任」(本人の希望は出せない)となっています。 平成14年を迎えると、桃源郷のような、人情味あふれる君谷小での4年間が終わろうとしていました。でも、(旧)赤来町では校長の異動がないという情報も耳に入ってきていたこともあって、「閉校まで(あと2年間)、この地に勤務したい」というのが正直な気持ちでした。 ところが、3月に告げられた勤務地は、お膝元の赤来町。さらに二重の驚きは想定外、またしても小学校だったことです。 ……前任の校長先生が(異例の)3年経過後、地元の小学校へ異動されたのです。 驚くと同時に、次第に嬉しさも広がりました。何といっても、ふるさとの地で、ふるさとの子ども達に関われることです。貢献出来るチャンスが与えられたことです。しかも、「小学校勤務の魅力」を味わってきた私に、もう一校、小学校勤務がプレゼントされました。しかも君谷小と同じく、「完全複式小規模校」(23名)も魅力でした。 着任式、子ども達との出会い初日から、びっくり仰天。歌声が実に伸びやかだったことと、な・なんと、「校歌」が自分の(来島)中学校時代と同じ校歌! 鳥肌が立ちました。何十年ぶりに聞いた「生の校歌」! ……いったいどうしたこと? しかし、同時に不思議なことにも気づきました。3番まで歌っていたはずの校歌(歌詞)が、2番止まりなのです。 ……それは困ります。歌い込まれた理念のうち、両輪(強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない。)の片輪が欠ける(2番と3番は対)ことになります。 【1番】♪ 伸びゆかん のぞみ大きく 【2番】♪ 伸びゆかん 心やさしく 【3番】♪ 伸びゆかん 強く正しく その後、金庫の「学校沿革誌」をめくって調べてみました。 この校歌は、昭和8年から歌われている。 もともと、3つの学校(来島小・小田小・来島中)共通の校歌だった。 来島小学校は昭和39年、新しい校歌が作らた。 来島中学校は昭和48年、閉校となった。 現在、この校歌を歌っているのは小田小だけである。 では、なぜ「3番」を歌わないのか? それは、「校旗」にありました。3番の歌い出しは「五つ輪の……」。ところが、小田小の校旗は「五つ輪」(=来島地区の小田・真木・上来島・野萱・下来島)ではありません。その校旗を有するのは「来島小」です。 しかし、教職員と相談した上で、3番まで歌うよう子ども達に語りかけました。実にすんなりと受け入れてくれました。 14.9.11 全校朝礼 小田小の校歌は3番まであるんです ちなみに、平成17年4月、小田小学校と(旧)来島小学校は学校統合。(新生)来島小学校として生まれ変わりました。それを機に、校章と校歌とが合体することになりました。
小田小児童の歌声は 地声ではありますが 実に伸びやかで 子どもらしいさわやかさがあります。 CDにして残しました。
教師にとって 授業は命
着任早々、思いがけず国語の授業をすることとなりました。始業式が終わって十日も経たない頃、低学年担任の先生(大学出たてだが、授業力・生徒指導力とも兼ね備えた優秀な教員)から、思いがけない申し入れがあったのです。 「校長先生は、『国語の授業は、音読が命だ』と言っておられましたよね。この時期、1年生と2年生が同じ教室でやるのは無理です。当分の間、どちらかの学年の授業をお願い出来ませんか?」。 ……着任当初から、「困ったことがあったら、遠慮せずにいつでも相談するように」と伝えてありました。それで、子ども達のために相談に来たとのこと、「当分の間」とは6月中旬を考えているとのことでもありました。 なるほど、入学早々の新入生と、一年間国語の授業を受けた上級生とが、同じ教材で授業出来るわけがありません。かといって、算数のように「わたりの授業」は困難が予想されました。 さっそく、翌日から1年生4人の授業を担当することとなりました。まだ保育所の名残が残っています。机に座って、45分間いい子にしていること自体、困難を来たします。わがままも出ます、ケンカもします、機嫌を損ねたり泣き出したりもあります、……。 そんななか、「音読が命」の授業がスタートしました。毎日に1時間目は「こくご」と決まっていました。その上、週2日はもう1時間(一日に2時間)あります。 何と言っても私の度肝を抜いたのは、暗誦能力のすごさでです。中学生より、明らかに優秀。10行程度の「詩」を持っていくと、7〜10回も音読すれば、あっけなく宙で覚えてしまいます。恐ろしきかな児童期! まだいたいけな児童は、音読の延長で、ごく自然にあっけなく教科書教材を全文暗誦してしまいました。しかも、(私と違って)時を隔てても覚えた文章を忘れません。特に私を驚かせたのは、絵本「おばあちゃんすごい」(童心社)をたった20分で覚えた児童がいたこと、……。 入学当初は、授業そのものより生活指導に主力を注いでいました。が、6月に入る頃から一気に落ち着きが出てくるとともに、授業への集中度も目に見えて向上しました。 結局わけあって、3年生まで持ち上がりで国語を担当しましたた。その3年間、教科書教材はすべて全文暗誦。その上、古典(古文・漢文)、詩歌(詩・俳句・短歌)、短い絵本、百人一首100首(作者名を言うと和歌が出てくる)などを、どん欲に暗誦し続けました。 例えば百人一首の場合、きょう8首提示すると2日後には全員(転入生があり、小3からは5人)が暗誦完了。やり方は、初めは1首言えば合格。次は2首まとめて、3回目は4首まとめて、最後は8首すらすら言えて合格。(45分の授業で、毎時間10分間が名文暗誦の時間。) 意味も分からない、聞いたことも見たこともない古典の言い回しの音読こそ、前頭葉を活性化すると、(東北大学)川島隆太氏は著書で述べておられます。まさに、寺子屋時代の素読そのものです。 漢字カルタ、読み書き分離学習、虫食い学習、一読総合法的学習、手ぶらスピーチなど、それまで蓄積してきていたノウハウを存分に導入しての授業を展開しました。 ほとんど隣接して保育所があり、親しくなった保育所の先生にお願いして、毎月一回程度、出かけていっては交流(授業成果の発表と自由遊び)をさせてもらいました。それが励みで、子ども達は朗読・暗唱などを頑張ってもいました。 教師にとって、何といっても「授業が命」です。授業を機軸にしながら、日々の教員生活が充実していた、といっても過言ではありません。 ちなみに、3年生2月に実施した標準学力テストでは、5人全員が93点以上の成績(全国平均は78点)。嬉しい成果でした。 学力向上といえば、前任校(君谷小学校)で成果を上げた「君谷塾」が、小田小でも導入されました。教育愛に燃える教職員です。子ども達の基礎学力向上のためならと、二つ返事で導入が決まりました。 廊下に居並ぶ先生に採点してもらいます。⇒合格したら次のプリントへ!
「読書ノート」も全校ぐるみで頑張りました。県読書ノートコンクールで、最優秀(部門3人)・優秀(同5人)など、受賞し続けました。 ただ、「総合的な学習の時間」については、本来あるべき「総合学力」を育成することからは、少しずれていました。森の中に遊園地を造る、イカダを造って遊ぶ、竹で城を造るなど、体験に走る傾向がありました。 しかし、上記のごとく基礎学力で成果が上がっていたことと、最近やせ細ってきた自然との関わりの「体験」不足を補う、という意味合いから、ここには特にメスを入れることなく3年間が過ぎました、……。
保護者の団結力とパワー 〜塩津小との交流会など〜
平成5年頃から数年間、「海幸彦 山幸彦」という事業がありました。それを担当しておられた、(出雲教育事務所)社会教育主事[班長]I先生が校長時代(平成8年)に導入されたのが、平田市立塩津小学校との交流です。 この事業指定が終了後も、保護者を巻き込んだ一大事業として、脈々と残り続けていました。夏には小田小から塩津小へ海水浴に出かけます。逆に冬は塩津小から小田小へやってきて、雪遊びです。いずれも、教職員・保護者を巻き込んだ、1泊2日の事業です。 何年も継続しているので、保護者同士が顔なじみ。「おい!」「やぁ!」という実に親しい関係を築いておられます。さまざまな交流準備の一端(特に親同士の交流)は、保護者がパワフルに担っておられました。子ども達同士の交流の一方で、保護者同士は酒を酌み交わし、海の幸・山の幸で大いに盛り上がっていました。 16.7.24-25 夏の交流ファイナル第一日目 第二日目 17.1.29-30 冬の交流会ファイナル ちなみに平成15年、塩津小学校は、映画「白い船」で一躍全国区に躍り出ました。超有名校になったのです。小田小には直接関係はありませんが、教職員・児童は何だか誇らしい気持ちになったものです。 それにしても、お互いに保護者のバックアップがパワフルな極小規模校同士の交流。 ……そう簡単には創り出せない、「絵本の世界のような交流」が実現していました。 交流といえば、前任校(君谷小)同様、職員の数も少ない小規模校です。職員同士の心の交流も絆もあたたかく、職員室には笑いが絶えないアットホームな学校でした。 また、保護者のパワーは前任校以上とも言えました。なにせ、ほとんど毎月のように、教職員を巻き込んだ「懇親会」があります。そこに(賛否両論あると思いますが)子ども達も同席。和やかで賑やかな夜を演出していました。それも、1,000円〜1,500円という破格の会費です。保護者同士が「一品ずつ持ち寄り宴会」というやり方をしておられたからです。 そのぐらいの団結力ですから、学習発表会では本格的な「劇」を上演されます。衣装も動作も、それはそれは「恐れ入りました!」というレベルです。 保護者劇「水戸黄門」 また、「どろリンピック」など、地域を巻き込んだ行事も企画、実践しておられました。ただただ頭が下がる気持ちです、……。 ちなみに、会員人数が少ないPTAバレーは、ほとんど全員参加です。経験者が2名というチームですが、練習日は実に和やかで賑やかに行われていました。決して強くないチームには違いありませんが、いつも笑顔があります。これぞ「PTAバレーの原点」という姿を、私はそこに見ました。
エネルギーをつぎ込んだこと ホームページ 中国地区学校図書館研究大会
小田小勤務時代、(他の校長先生方と違った面で)エネルギーをつぎ込んだといえば、一つにはホームページがあります。 前任校でホームページのすごさを知った私です。転勤したとき、小田小にはすでにホームページが立ち上げられていました。ただ、ほとんど更新がない状況にありました。たまたま担当者の先生が、私と入れ替わりに異動されました。 ホームページの更新には、時間と労力が必要です。これをやったからといって、特に給料が上がるわけでもありません。しかし、「百聞は一見にしかず」と言います。多くを語るより、たった一枚の写真の方が、遙かに情報を伝えることが出来ます。 もともと、フリータイムは校長がいちばん有してもいます。子ども達のがんばり、教職員の真摯な姿を取り上げ、伝える使命感を持って、あえて立ち向かうことにしました。 (学校の)ホームページの「よさ」はいろいろとありますが、特に次の点で優れていると考えています。 @ お金がいらない。情報発信には欠かせない紙代・印刷代・(配布代)など、いっさい必要ありません。 A 情報が速い。今日あった出来事を即日、発信することができます。 B 「百聞は一見にしかず」。文字では限界があります。写真一枚が伝える情報量は、文 字と比較になりません。それにコメントを加えれば、より臨場感を持って様子を伝えることができます。 しかしながら、問題点もあります。近年特に尊重することが義務づけられている、個人情報、肖像権、プライバシーなどの保護です。そこで、次のことに留意して発信するように心がけました。 @ 個人名は必要ない限り出さない。出しても「姓名」の「名」だけ(例=勝信)にする。 A 名前と顔が一致するような掲載はしない。 B 掲載する写真は、視線がこちら向きのものは基本的に採用しない。場合によっては「ぼかす」などの画像処理をする。 C 生徒の作品や手元のノートなど掲載する場合は、事前に本人の承諾を得る。 振り返ってみるに、実に莫大な時間をこれに費やしてきました。担当しなかったら、あくせくバタバタせずに、校長室でどんなにゆったりした時間が過ごせたかと思います。 いや、ホームページを担当したからこそ、校長室に引きこもらずに済んだとも言えます。子ども達のなかにどんどん飛び込んでいけたとも言えます。 小田小ホームページ …昨年4月、機器入れ替えのためアドレス変更。以後、検索が困難に。 エネルギーをつぎ込んだと言えば、もう一つ、「平成15年度 中国地区学校図書館研究大会」があります。 平成12年度から「島根県学校図書館協議会」会長を務めていました。慣例により、高等学校図書館研究会会長が大会長となり、島根県学校図書館協議会会長が事務局長を担うことになっていました。 大会規模は750名、会場校は出雲商業高校を始め7校もあります。遠路にあって、連絡調整はかなりの困難を伴いました。 小田小に勤務している時間帯(昼間)は、研究大会に関する仕事をする余裕は全くありません。まさに怒濤のようなその日暮らしを送っていました。 ……膨大な文書作成、メールのやりとりは、すべて帰宅後。いちばん多忙な時期は、深夜1時、2時までパソコンと格闘する日々が続きました。今思い返しても、「我ながらよくぞ乗り切ったなぁ〜」という思いがあります。 大会に至るまでには何かとトラブルもありましたが、大会当日は大盛況。学校図書館をめぐって追い風の時期でもありましたので、大きな成果を上げて大会を終えることが出来、本当によかったと思います。 平成15年度 中国地区研究大会(出雲大会)
学校統合
校舎は、地域の一等地に位置していました。校長室から眺める景色は、山の緑を背景に広がる田圃です。農作業で往来の方々が、窓のそばを通り過ぎるたびに声をかけてくださいます。 ……地域のなかに学校がある、学校のまわりは垣根のない地域に囲まれている。まさに地域と一体化した学校、それが小田小学校です。 16.11.12 (小田地区)秋祭り そんな学校ですから、子ども達も純朴で、明るく楽しい学校生活を過ごしていました。しかし、絵本から飛び出したような小さな小学校が、消えようとしていました。 立場上、この流れをどうすることも出来ませんでした。もっとも、校区内の乳幼児の人数は激しい減少傾向にありました。入学生が1名、2名の年も予想されるという深刻さです。 「町村合併前に学校統合すれば、人的配置も十分出来る。町村合併後なら、まず困難。」と主張される教育長さん。「多い人数のうちに学校統合した方が、子ども達のためにはいい。」と最終判断された町長さん。 着任して3年目が終わる時をもって、(旧)来島小学校と統合。(新生)来島小学校として、平成17年4月にスタートすることが決まりました。 以下に、閉校時に書き残した「お別れの言葉」を掲載し、当時の心情をつづります。 17.03.31 お別れの言葉
終わってみれば、あっという間に流れたこの3年間でした。 着任と同時に、ずっと「閉校」という暗い影がつきまとい、子ども達の行く末と小田小学校の今後を思い続けて、とうとう今日のこの日がやってきてしまいました。 それにしても、楽しく充実した3年間でした。 校長室の窓外に広がる緑豊かな景色、笑顔で窓越しに声をかけて下さった地域の皆様、そして、何と言っても素晴らしい子ども達。 子ども達からどれほどの喜びと幸せをプレゼントしてもらったことでしょう! 感謝の気持ちでいっぱいです。 パワフルで心温まる保護者の皆様。心強いサポーターでした。 その保護者の皆さんが、閉校が身近に迫ったとき、涙し、怒り、嘆き、……。この一連の出来事だけは、せつなく苦しいものでした。 ところが、いったん「平成17年3月閉校」が決まると、一転してそのパワーを、一連の閉校行事に向けて全開されました。この潔さ、プラス志向。いや、心の中にはやりきれない思いを抱きながらの作業だったことでしょう。頭が下がります。 職員が素晴らしかったです。子ども達に負けないほど純で、思いやりがあって、前向きで。いつも職員室は笑顔があふれていました。助け合う姿が日常に見られました。滅私奉公という言葉がふさわしいかどうか分かりませんが、いつもいつも感心・感動していました。 これもきっと、小田小の子ども達の姿に感化されて、自然にそういう雰囲気が醸し出されたのかも知れません。 本当にありがとうございました。 校長自ら言うのははばかられはしますが、あえて言わせていただきます。 「小田小学校は天下に誇れる、素晴らしい学校でした」。
閉校に際して 卒業生の言葉
17.3.20(日) 閉校式 & 記念行事
17.3.20(日) 閉校式の日がやってきました
17.3.19(土) 小田小最後の修了式 & 離任式
17.3.19(土) 卒業式 (卒業式 伴ちゃん一人に わく拍手) .