教員生活を振り返って
(11)
F 君谷小学校
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23.3.13(日)


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勤務歴
赴任順 着任年度 着任時
年齢
勤務校等 職名 在職
年数
自宅からの
距離(Km)
1 昭和 49 23 大原郡 大東町立大東中学校 教諭 3 58
2 52 26 邑智郡 羽須美村立阿須那中学校 教諭 4 26
3 56 30 飯石郡 頓原町立頓原中学校 教諭 7 10
4 63 37 飯石郡 吉田村立吉田中学校 教諭 4 24
5 平成 4 41 (出雲市) 出雲教育事務所 指導主事 4 56
6 8 45 飯石郡 赤来町立赤来中学校 教頭 2 1
7 10 47 邑智郡 邑智町立君谷小学校 校長 4 30
8 14 51 飯石郡 赤来町立小田小学校 校長 3 3
9 17 54 飯石郡 飯南町立赤来中学校 校長 6 1


 

校長昇任として異動した小学校は
完全複式。
児童数19名、教職員7名(校長・教頭・教諭3・養護教諭・用務員)
まさに極小規模の学校でした。
それまでの体験から
極小規模小学校からやってきた新入生はひ弱
というイメージ(先入観)を抱いていましたが、
着任した君谷小学校で
その考えは覆されました。
中学校へ進学した卒業生は
学業成績も全体的に優秀
そして何よりもリーダーを演じる生徒が
続出していました。
いったいそこには、何が隠されているのか、……?
4年間の勤務を通して
一つの答えを見つけたように思っています。



初めて務めた小学校は
異空間


 思いがけない展開の上、急きょ異動が告げられた学校は、何と小学校。小学校免許を持たない私にとっては、まさに「ハトに豆鉄砲」です。

 しかしながら、もともと校長昇任としては年齢が若い47歳。たとえ翌年度異動となっても、石見部(益田管内)への単身赴任は避けられない、と覚悟していました。それだけに、不本意ではありながら一方では、我が家からの距離(約30Km)には、驚いたり喜んだりしました。

 我が家から邑智町境までは約2Km。邑智町役場がある「粕淵」までは、2車線の道路(県道;赤名ー大田線)を20Km走ります。問題は、粕淵から脇道(ほとんど一車線道路)に逸れて、君谷小(地名は京覧原)までの路線。1車線が延々と10Kmも続きます。

 向こうからトラックでも来ようものなら、50mはバックすることを覚悟しないといけません。平均時速30Km〜40Km、粕淵から約20分かけて到着(合計;片道40分)です。
 ……3年目には別ルートで2車線の道路が開通、通勤がぐんと楽になりました。

                   

 そうやって、やっとこさで到着した場所は、山間(やまあいに開けた細長の盆地。まさに「桃源郷」のような世界が、そこには広がっていました。
(アルバムが行方不明のため、紹介する写真は、大半がオリジナルCDアルバムからです。)

          

 活発さと純朴さを醸し出す児童は、たった19名のおとぎ話のような小学校。のどかで温かい人々が暮らす田舎は、昭和30年代を彷彿とするような世界でした。

                   

 驚いたのは、中学校と小学校の違い。まさに文化が違います。

 いちばん嬉しかったのは、退庁時刻です。午後3時半には低学年が下校していきます。4時半になると(ミニバス大会・陸上大会直前を除けば)中・高学年が下校していきます。

 すると5時前後には、コーヒーが入って職員室は井戸端会議が始まります。そのころ私は、体操服に着替えて(学校近くの道路を往復)ジョギングに飛び出します。

 6時頃走り終えて学校に戻ると、(時には教頭先生がまだ残っておられましたが)校舎はもぬけの殻となっていました。むろん、先生方は持ち帰り仕事はあったと思います。でも、部活動のある中学校とは大違い、実に健全な勤務の姿だと驚いたり感動したりしました。

 もっとも、そういう風景は着任初年度のみ。翌年度は大学出たての若い先生が熱心に放課後も仕事、それについて教頭先生も居残り、……というパターンが生じました。いわく、「持ち帰って仕事をするより、済ませてすっきりして帰った方がいい」。 ……こうやって一人また一人、居残る先生が増えていきました。でも、中学校との違いは、子ども達のいない空間が放課後広がっていることです。

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校長室


 まず困ったことには、着任早々ある入学式(式辞)です。保育所からやってきたばかりの幼子に、日本語がちゃんと伝わるものか? 何を話すのか? ……ずっと中学校を歩んできた私には、イメージが湧きません。

 そんな話を、転勤前の赤来中学校職員室で話題にすると、若い男先生が「絵本を読んでやったらいいんじゃあないですか?」とぼそり、……。即座に採用と決めました。

 選んだ絵本は、一番大好きな、しかもメッセージ性のある『花さき山』です。入学生がたった3名ですから、間近から読み聞かせをしました。 ……ただ、残念。新入生の精神年齢から見て、このメッセージは十分届かなかった反省が残りました。でも、「校長式辞で読み聞かせ」は、職員、保護者、来賓にはすこぶる好評。

 以後の校長生活13年間、入学式における「校長式辞」は、すべて読み聞かせを踏襲し続けました。(赤来中時代6年間は、レベルを上げて暗唱朗読をしました。)

                   

 ちなみに卒業式ですが、(後述するように)君谷小は、全校合唱で有名な小学校でした。そんな学校ですから、卒業式も「歌」が底を流れています。

 そんな中、私がギターが弾けることを知った職員が「校長先生の式辞はギターで歌を歌われたらいいと思います」と提案。居合わせた他の職員も、あっけなく賛同。「人前で独唱なんて、とんでもない!」と断ると、歌は職員みんなで歌うとのこと、……。

 紆余曲折の後、その方向が決定。
「未来へ」Kiroroを歌いました。 ……これがまた、児童・保護者・来賓に好評。以後の勤務校も含めて13年間、同じやり方を踏襲し続けました。

                   

 「こうちょう先生、子ども達を呼び捨てにすると泣きますよ。」と教頭先生からアドバイスを受けてスタートした、小学校での校長生活。まずは、校長は何をするのかが、よく分かっていません。しかも、君谷小学校の校長室は、職員室から(玄関⇒ランチルーム⇒保健室)遠く離れた位置にあります。まさに4月当初は「孤独の世界」を体験することとなりました。

 職員朝礼が終わり、学級担任の先生が教室へと散って行かれると、もう職員室に長居は出来ません。 ……「教頭先生始め先生方は忙しくしておられるので、職員室で長居をしたり話しかけたりしないようにした方がいいですよ。」、前任の校長先生からのアドバイスです。

                   

 初年度、少なくとも一学期の間は、校長室で「ゆとり」の時間を過ごしていました。大半は教養読書ではありましたが、自分の「教員としての存在感・充実感」が希薄になったような、寂しい思いをしたときもあります。

 ただ、初年度後半あたりから、何かと出張が多くなりました。2年目からは(あれこれ役職も担ったりしたこともあって)、終日学校に勤務したのはたった3日だけという月もあったほどです。


                   

 そして、話題は校長室に戻って、……着任後何日かが過ぎたある日、全校朝礼で「校長室は、みんなが来てもいいことにします。」などと宣言してしまいました。「〜してしまいました」というのは、まさか大挙して頻繁にやってくるとは、予想していなかったからです。

 そのときから、校長室は(昼休み、放課後など)一つの「たまり場」「憩いの空間」となってしまいました。特にやってきたのが低学年です。折り紙、(使い古しのワープロで)お絵かき、トランプ、おしゃべり、(小さい人形を使って)かくれんぼ、……。体育館でのドッジボール、校舎を使ってのかくれんぼもありました、……。

 高学年の中には、囲碁に興味を持って「9路盤」を使って指導してやった子もいます。ギターを教えてやった子もいます、……。

 もっとも、とにかく外でころころよく遊ぶ子ども達です。しかも少人数の学校です、上級生も下級生も男の子も女の子も、団子になって遊びます。天気のいい日などは、教頭先生始め全教職員が校庭に繰り出す日も少なくありません。 ……そんな日の電話番は、決まって私、校長の役目でした。

 ちなみに、校長室を開放することについては、教職員・保護者ともに賛否両論ありました。最終的には、「子ども達にとってどうなのか?」がポイントとなり、「子ども達の居場所の一つにしてやってもいい」ということで、4年間が過ぎました。

 なお、次の異動校(小田小学校)では、基本的に開放しませんでした。もっとも、朝の読み聞かせは1年生を校長室に招き入れていたこと。着任時の1年生を持ち上がりで3年生、国語を担当したこともあって、低学年はよく校長室にやってきました。

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全校合唱


 君谷小学校で特筆すべきことの一つは、何といっても「全校合唱」です。「頭声発声」ということを初めて知りました。裏声のような声で均一の声を作り出し、絹糸のようなハーモニーを生み出すそうです。とりわけ低学年が歌うといったら、怒鳴るような歌い方「地声」が普通です。

 でも、君谷小では保育所の時代から「全校合唱」の歌声を聞いて育っています。入学すると、まさにマンツーマン態勢で上級生が教えます。夏を迎える頃には、立派に頭声発声で音程も外れずに歌うようになります。 ⇒そして、秋の「邑智郡音楽祭」のステージを迎えるのです。

 この「全校合唱」については、以前の「コメントの部屋」で取り上げていますので、それを以下に(全部ではありませんが)貼り付けます。

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 平成20年度(赤来中勤務時代)
 島根県音楽教育連盟から
 原稿を依頼されました。
 50周年記念誌のなかで
 第4章「教育文化振興会奨励賞受賞校」を設ける由。
 君谷小は平成12年度の栄えある受賞校でした。
 



(1)賞状の文言



 貴校は、「子どものために 子どもとともに 子どもを生かして」の基本姿勢のもと「小規模校の特色、地域の環境を生かし、温かさと厳しさと感動を大切にした教育」の推進に鋭意取り組まれました。
 特に、全校合唱については伝統的に取り組まれ、全校児童が心を合わせての歌声は、郡内外でも高く評価されているところです。そして、音楽を通しての地域や諸施設との交流、町チャリティショー出演、広島市立己斐東小学校との交流学習等へ広がっています。この歌声は子ども達の感性を育て、自信と誇りを与えており、そのひびきあう音楽教育の成果には誠に顕著なものがあります。
 よってここに、その功績を讃え記念品を贈り選奨いたします。

 平成十三年二月七日 

 

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(2)当時の活動状況
〜○内の数字は、下のコメントと関連があります。〜


 本校は山間部の完全複式学校。@伝統的に「全校合唱」が学校の特徴でもあり自慢でもあります。A近くの内田保育所との交流が日常的にあり、幼児の皆さんは入学前から小学生の歌声に憧れを抱いています。本校に入学すると、さっそく上級生の歌声を背中に聞きながら頭声発生を学びます。先輩は手取り足取りで、発声の仕方を伝授します。その成果があって、半年も経つうちには、上級生に負けまいと次第に地声から卒業していきます。

 この歌声を披露する一番の晴れ舞台は、邑智郡音楽祭です。本校のステージは郡内の学校から高い評価を得ており、毎年「君谷小の合唱は聞き逃さない」と期待を抱かれるほどでした。また、定期的に訪問していた、町内の重度身体障害者授産施設「邑智園」での合唱披露も楽しみにしていただいていました。

 B平成10年、広島市立己斐東小学校との交流学習が始まりました。暑さの厳しい7月のある日、田舎からやってきた本校の児童は、大規模校の子ども達が待つ体育館に案内されました。ざわざわする会場で、さっそく自慢の合唱の披露です。すると、さっきまでざわついていた会場があっという間に歌声に集中しました。足を投げ出して待っていた児童の皆さんは、次々と正座に変わりました。この合唱が、一気に田舎と都会の子ども達を対等にし、心を通わす原動力になったのです。

 本校の校歌は、校歌としては珍しく「二部合唱」です。毎年メンバーが替わる君谷小合唱団は、秋になると川本音戯館でCDの録音をしました。歌声だけではなく、自慢の自作俳句や詩歌の音読を収録し、記念アルバムとして残してきています。

 一方、運動会の時には鼓笛隊を編成。毎年、プログラムの中に演奏披露が盛り込まれています。この演奏は運動会を盛り上げるだけではなく、保護者を始め地域の皆さんが心待ちにしてくださっていました。まさに音楽で育まれる君谷小学校児童です。

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(3)受賞に関するエピソード


 本校の子ども達は、卒業すると町内6校から集まる邑智中学校へ進学します。C6校中一番少人数の小学校ですが、本校卒業の子ども達は、中学校ではリーダーとして活躍する生徒が沢山出ました。例えば、3学年6学級中学級委員が6人という学期もあるほどでした。本校職員の間では、腹の底から歌えるそのパワーが自信になっているのではないか、と話し合っていました。

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@自慢の全校合唱
〜○内の数字は、上の文章と関連しています。〜


 たとえ小さな学校でも、「これについてはどこにも負けない」という自信を持っていること、特長(特色)があるということは、他校と交わっても決して臆することがない。 ……これは、学校でなくても、人間(個人)にとっても普遍的な事実だと思います。

 君谷小学校は、いつから「全校合唱」がスタートし、いつ頃から学校の自慢になったのかは、(校史をひもといても)定かには分かりませんでした。旧職員をたどって尋ねると、昭和の終わり頃から始まったとのことです。

 それまで中学校勤務しか経験がなかった私にとって、「
頭声発生」はカルチャーショックでした。裏声のような発声で、伸びやかに歌うのです。しかも、ふつう小学校低学年というと、「歌っているのか、がなっている(=怒鳴る)のかわけが分からない」はずなのに、入学当初から、一生懸命「裏声」に挑戦しているのです。

 毎朝、朝礼時には各学級で歌を歌うとともに、年間通して「全校合唱」の時間が設けてありました。全校で歌うときには、低学年が一番前列、中学年がその後ろ、高学年が最後列に並んでいました。 ……低学年は背中に、美しい糸を引くような高学年の歌声を聴きながら、歌の練習をすることが出来るのです。

 しかも、上級生がまさにマンツーマンで「声の出し方」を指導していました。子ども達の間では、「地声」はダメだという認識が広がっていたのです。

 その成果は、上の文章に書いたとおりです。

 ところで、特筆すべきは Bです。確か「ハート財団」の事業だったと記憶しています。平成10年度、君谷小学校に30万円が寄贈になり、「田舎の小規模校と都会の大規模校との交流」が行われました。

 己斐東小学校との初対面については、上述のとおりです。追加でエピソードを紹介します。君谷小の全校合唱が、体育館の空気を変えた後、急きょお返しに、己斐東小の皆さんが「校歌」を歌ってくれることになりました。

 正直言って、とてもきれいな歌い方とは言えませんでした。が、何せ人数が違います。圧倒されるような校歌を地声で披露してくれました。その後、校長先生の話です。「うちの子ども達が、あんなに大きな声で校歌を歌ったのには驚きました」。 ……君谷小の全校合唱が、己斐東小児童の皆さんの魂を揺さぶったのです。

 その後、3時間目と4時間目の授業に参加しました。一クラスに君谷小児童1〜2人です。しかし、あの合唱があったからこそ(だと分析しています)、まわりの子ども達が好意的に受け入れてくれていました。どの教室でも、君谷小児童はすっかり溶け込んで活動していました。

 給食の後の昼休みになると一斉に校庭に飛び出し、まさにウンカのごとき風景が展開してました。驚いたのは、中には “君谷小児童が己斐東小児童の皆さんを引き連れて歩いている場面” も目にしたことです。もし、全校合唱の披露がなかったら、きっと全く違った展開になっていたことと思います。

 Cで紹介していますが、学級委員だけではなく、生徒会長に2代連続して君谷小卒業生が務めたり、学習面でも上位にたくさん入ったり、全校生徒数からみたらわずかに 1/10に満たない卒業生ですが、その活躍ぶりは君谷小の誇りとなっていました。

 ところで、「大規模校の前に出ても臆することがない」という自信は、どこから来ているのでしょうか?

 校内の教職員、保護者の間では、ときどき話題になっていました。「親からの遺伝だ」とか、「地域性だ」とか、「上級生が下級生の面倒を見る体験が生かされている」とか、いろんな意見が出されていました。

 そのなかで、一番誰もが納得していたのが「全校合唱」です。

 腹の底から歌えることは、「活力」、「自信」に繋がっています。みんなで作り上げた全校合唱は、聴く人に感動を与え、時には「鳥肌が立った」とさえ感想を言われる方もありました。それが、(小規模校でありながら)自分たちの自信になっていたのは、疑う余地がありません。

 そして、児童の皆さんのギャング集団ぶりは、昭和30年代を彷彿とさせられるところがありました。パワフルな歌声は、確かに「活力」に繋がっています。事実が証明しています。

 私ごとですが、学級担任時代、私はギターを教室に置いて、学級朝礼・学級終礼で、みんなで歌を歌っていました。1970年代にヒットしたフォークソングを毎週1曲ずつ教え、私のギター伴奏で歌っていたのです。

 そのときどき、よく歌う学級と、大きな声で歌えない学級とがありました。まさに学級の活力と正比例しています。学級集団の活力が伸びると、不思議と歌声も大きくなっていきました。

 逆転の発想ではありませんが、大きな声で歌える学級集団を育てることによって、何事にも前向きに、あふれる活力で取り組むクラスに育てることが出来ます。単純明快な図式です。

 
ちなみに、君谷小の後に異動した小田小学校も、完全複式の極小規模小学校でした。驚いたのは、全校合唱の声が実に伸びやかだったことです。頭声発生ではありませんでしたが、ほれぼれするほどの声量です。 ……この歌声をぜひ形にして残したいという、私(校長)の希望が受け入れられ、(君谷小と同じく)川本音戯館で「CD」を制作しました。

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A保育所との交流


 せっかくですから、君谷小のもう一つの誇りを紹介します。

 君谷小へ入学してくるのは、1Kmの距離に位置していた「内田保育所」の幼児の皆さんです。この時の倉橋所長さんは、実に立派な方でした。

 どちらかというと、事なかれ主義が主流となってきていた保育所にあって、内田保育所の経営方針は、「わんぱくでもいい、……」。野山で遊ぶのは当たり前。まさに自然児を育てておられました。

 その一環として、よく君谷小学校へも “歩いて” 遊びに来ておられました。もともと「運動会」「学習発表会」「とんど祭」など合同で行っていました。そこで提案して始まったのが、
合同給食です。

 毎月一回、君谷小の校舎内に招き、一緒に給食を食べます。事前には校長室で、絵本の読み聞かせもしました。給食後は、一緒に昼休みを楽しんだり、掃除をしたりしました。そして、児童全員が見送る中を帰っていきました。

 先ほどの全校合唱、頭声発生も、入学前から何年も聴いてきています。ですから、「小学生になったら、あんな声でみんなで歌うんだ」という意識を育んで入学してきていました。鼓笛隊にも憧れを抱いて入学してきていました。

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君谷塾
君谷小ホームページ


 君谷小で忘れてならないのが、標題の2つです。

 君谷塾については、当時「ゆとり教育」が教育界の流れにあって、基礎学力をしっかりつけて中学校に送り出そう! という強い意気込みからスタートした実践です。この実践は「研究実践」として、「平成13年度 教育公務員弘済会応募論文」に応募したところ、優秀賞を受賞(県で上位2校)し、賞金19万円をいただくことができました。

 この実践によって、特に計算力と漢字力を大きく伸ばしてやることが出来ました。論文は、下をクリックしてください。

 君谷塾


                   

 もう一つ、職員2人の手によってホームページが立ち上げられました。平成11年のことです。当時としては、学校のホームページは走りの時代でした。

 君谷小学校ホームページ

 ただ、まだインターネットが十分普及していない時代です。カウンターを設置して、訪問数をカウントしたところ「ひと晩で6回」という日がありました。 ……何のことはない、所属職員以外は一人も訪問者がなかったのです。それでも、保護者へ宣伝して一日20回以上を数えるようにはなりました。

 掲示板も設置しました。しばらくは、児童同士の温かい交流がありました。が、いつの頃からか「いたずら書き込み」(死ねなど)やアダルト関係のリンク紹介などが頻繁になり、朝のチェックが欠かせなくなりました。最後はとうとう、県教委の県内指示により、掲示板そのものを撤去しました。以後はメール交流に変更、悔しい思い出です。

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心あたたまる
楽しい4年間でした


 君谷小は、どこまでも平和・平穏な山間僻地、極小規模校です。正直言って、校長としての存在感は、すこぶる希薄。学校を当分留守にしても、何事もなく先生方、子ども達は生き生きと充実した学校生活を送っていました。

 ただ、小規模校ですから、校長も児童一人一人と心の交流が日常的に出来ます。そういう意味では、たくましく温かい子ども達に囲まれて、毎日楽しい生活を過ごさせていただきました。

 また、地域の方々、保護者の皆様が、実にあたたかい。行事でもあると、保護者は夫婦そろってが当たり前。己斐小学校との交流会(1泊2日)も、キャンプ(1泊2日)も、親子・教職員でにぎやかに実施しました。運動会、学習発表会は、地域の高齢者がたくさん見に来てくださいました。

                   

 蛇足ですが、そんな行事の際、地域の高齢者の方々が(中には「きょうは都合で見学しないけど」という方まで)、金一封を持ってきてくださいました。その都度、合計10万円以上はいただいていました。

 さすがに気の毒で気が引けて、教育長さんに相談しました。すると、……「せっかくの気持ちだから受け取るように」、「学校へ持っていくことが喜びだから、その喜びは奪わない方がいい」とのことでした。

 もうひとつ、気になることがありました。校舎外まで聞こえる校内放送とチャイムです。近所の方に、「うるさくして申し訳ありません」とお話すると、思いがけない言葉が戻ってきました。 ……(^^)「いやいや、あれが聞こえた方がいいんですけぇ〜なぁ〜。」

                   

 教職員はたった7名。この少人数が温かい絆を深めてくれました。毎年夏休み中の職員旅行は、今でもかけがえのない思い出となっています。

 冬期間には、みんながそろって三瓶スキー場へ、ナイタースキーに繰り出しました。「鍋の会」なるものも、頻繁に行いました。場所は学校近くの「校長住宅」(2間+台所)、その夜は雑魚寝をしていました。

 今でも、当時の教職員(私の勤務時代4年間の教職員)との同窓会が続いています。

                   

 校長初年度から、「島根県学校図書館協議会」の副会長を務めました。2年後の平成12年度には「会長」へ。以後5年間務め、この間の一大任務として、
平成15年度中国地区学校図書館研究大会(出雲大会)の事務局長の大役を務めています。

 その後、勤務地(飯南町)で、
平成19年度島根県学校図書館研究大会(飯石大会)が開催されるため、会長職を辞して地元で事務局長に専念しました。が、事情があって、再び平成20年度から今日に至るまで「県学校図書館協議会会長」(合計8年間)を務めてきています。

 ですから、校長時代を語るとき、君谷小勤務時代から「学校図書館協議会」は私にとって、きわめて大きな存在となっています。

                   

 そうやって、あっけなく4年間が過ぎていきました。ただ、気になる問題が浮上してきていました。発端は、子どもが激減する現状です。君谷小校区は、0歳児〜6歳児の推移を見ると、将来の入学生が1人の年や0人という年があります。

 こういう現状は、君谷校区だけではなく、邑智町内6つの小学校すべてで見受けられました。一学年寄せ集めても40人に届かないのです。「こんなすてきな心温まる学校が、学校統合によって消える」、……そんな動きの中での異動の春を迎えようとしていました。

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君谷小学校閉校式
16.3.21















合唱が自慢の君谷小学校
それを暗示するかのように
校歌も
珍しく二部合唱の曲となっています。