平成20年度(赤来中勤務時代)
島根県音楽教育連盟から
原稿を依頼されました。
50周年記念誌のなかで
第4章「教育文化振興会奨励賞受賞校」を設ける由。
君谷小は平成12年度の栄えある受賞校でした。
(1)賞状の文言
貴校は、「子どものために 子どもとともに 子どもを生かして」の基本姿勢のもと「小規模校の特色、地域の環境を生かし、温かさと厳しさと感動を大切にした教育」の推進に鋭意取り組まれました。
特に、全校合唱については伝統的に取り組まれ、全校児童が心を合わせての歌声は、郡内外でも高く評価されているところです。そして、音楽を通しての地域や諸施設との交流、町チャリティショー出演、広島市立己斐東小学校との交流学習等へ広がっています。この歌声は子ども達の感性を育て、自信と誇りを与えており、そのひびきあう音楽教育の成果には誠に顕著なものがあります。
よってここに、その功績を讃え記念品を贈り選奨いたします。
平成十三年二月七日
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(2)当時の活動状況
〜○内の数字は、下のコメントと関連があります。〜
本校は山間部の完全複式学校。@伝統的に「全校合唱」が学校の特徴でもあり自慢でもあります。A近くの内田保育所との交流が日常的にあり、幼児の皆さんは入学前から小学生の歌声に憧れを抱いています。本校に入学すると、さっそく上級生の歌声を背中に聞きながら頭声発生を学びます。先輩は手取り足取りで、発声の仕方を伝授します。その成果があって、半年も経つうちには、上級生に負けまいと次第に地声から卒業していきます。
この歌声を披露する一番の晴れ舞台は、邑智郡音楽祭です。本校のステージは郡内の学校から高い評価を得ており、毎年「君谷小の合唱は聞き逃さない」と期待を抱かれるほどでした。また、定期的に訪問していた、町内の重度身体障害者授産施設「邑智園」での合唱披露も楽しみにしていただいていました。
B平成10年、広島市立己斐東小学校との交流学習が始まりました。暑さの厳しい7月のある日、田舎からやってきた本校の児童は、大規模校の子ども達が待つ体育館に案内されました。ざわざわする会場で、さっそく自慢の合唱の披露です。すると、さっきまでざわついていた会場があっという間に歌声に集中しました。足を投げ出して待っていた児童の皆さんは、次々と正座に変わりました。この合唱が、一気に田舎と都会の子ども達を対等にし、心を通わす原動力になったのです。
本校の校歌は、校歌としては珍しく「二部合唱」です。毎年メンバーが替わる君谷小合唱団は、秋になると川本音戯館でCDの録音をしました。歌声だけではなく、自慢の自作俳句や詩歌の音読を収録し、記念アルバムとして残してきています。
一方、運動会の時には鼓笛隊を編成。毎年、プログラムの中に演奏披露が盛り込まれています。この演奏は運動会を盛り上げるだけではなく、保護者を始め地域の皆さんが心待ちにしてくださっていました。まさに音楽で育まれる君谷小学校児童です。
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(3)受賞に関するエピソード
本校の子ども達は、卒業すると町内6校から集まる邑智中学校へ進学します。C6校中一番少人数の小学校ですが、本校卒業の子ども達は、中学校ではリーダーとして活躍する生徒が沢山出ました。例えば、3学年6学級中学級委員が6人という学期もあるほどでした。本校職員の間では、腹の底から歌えるそのパワーが自信になっているのではないか、と話し合っていました。
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@自慢の全校合唱
〜○内の数字は、上の文章と関連しています。〜
たとえ小さな学校でも、「これについてはどこにも負けない」という自信を持っていること、特長(特色)があるということは、他校と交わっても決して臆することがない。 ……これは、学校でなくても、人間(個人)にとっても普遍的な事実だと思います。
君谷小学校は、いつから「全校合唱」がスタートし、いつ頃から学校の自慢になったのかは、(校史をひもといても)定かには分かりませんでした。旧職員をたどって尋ねると、昭和の終わり頃から始まったとのことです。
それまで中学校勤務しか経験がなかった私にとって、「頭声発生」はカルチャーショックでした。裏声のような発声で、伸びやかに歌うのです。しかも、ふつう小学校低学年というと、「歌っているのか、がなっている(=怒鳴る)のかわけが分からない」はずなのに、入学当初から、一生懸命「裏声」に挑戦しているのです。
毎朝、朝礼時には各学級で歌を歌うとともに、年間通して「全校合唱」の時間が設けてありました。全校で歌うときには、低学年が一番前列、中学年がその後ろ、高学年が最後列に並んでいました。 ……低学年は背中に、美しい糸を引くような高学年の歌声を聴きながら、歌の練習をすることが出来るのです。
しかも、上級生がまさにマンツーマンで「声の出し方」を指導していました。子ども達の間では、「地声」はダメだという認識が広がっていたのです。
その成果は、上の文章に書いたとおりです。
ところで、特筆すべきは Bです。確か「ハート財団」の事業だったと記憶しています。平成10年度、君谷小学校に30万円が寄贈になり、「田舎の小規模校と都会の大規模校との交流」が行われました。
己斐東小学校との初対面については、上述のとおりです。追加でエピソードを紹介します。君谷小の全校合唱が、体育館の空気を変えた後、急きょお返しに、己斐東小の皆さんが「校歌」を歌ってくれることになりました。
正直言って、とてもきれいな歌い方とは言えませんでした。が、何せ人数が違います。圧倒されるような校歌を地声で披露してくれました。その後、校長先生の話です。「うちの子ども達が、あんなに大きな声で校歌を歌ったのには驚きました」。 ……君谷小の全校合唱が、己斐東小児童の皆さんの魂を揺さぶったのです。
その後、3時間目と4時間目の授業に参加しました。一クラスに君谷小児童1〜2人です。しかし、あの合唱があったからこそ(だと分析しています)、まわりの子ども達が好意的に受け入れてくれていました。どの教室でも、君谷小児童はすっかり溶け込んで活動していました。
給食の後の昼休みになると一斉に校庭に飛び出し、まさにウンカのごとき風景が展開してました。驚いたのは、中には
“君谷小児童が己斐東小児童の皆さんを引き連れて歩いている場面” も目にしたことです。もし、全校合唱の披露がなかったら、きっと全く違った展開になっていたことと思います。
Cで紹介していますが、学級委員だけではなく、生徒会長に2代連続して君谷小卒業生が務めたり、学習面でも上位にたくさん入ったり、全校生徒数からみたらわずかに 1/10に満たない卒業生ですが、その活躍ぶりは君谷小の誇りとなっていました。
ところで、「大規模校の前に出ても臆することがない」という自信は、どこから来ているのでしょうか?
校内の教職員、保護者の間では、ときどき話題になっていました。「親からの遺伝だ」とか、「地域性だ」とか、「上級生が下級生の面倒を見る体験が生かされている」とか、いろんな意見が出されていました。
そのなかで、一番誰もが納得していたのが「全校合唱」です。
腹の底から歌えることは、「活力」、「自信」に繋がっています。みんなで作り上げた全校合唱は、聴く人に感動を与え、時には「鳥肌が立った」とさえ感想を言われる方もありました。それが、(小規模校でありながら)自分たちの自信になっていたのは、疑う余地がありません。
そして、児童の皆さんのギャング集団ぶりは、昭和30年代を彷彿とさせられるところがありました。パワフルな歌声は、確かに「活力」に繋がっています。事実が証明しています。
私ごとですが、学級担任時代、私はギターを教室に置いて、学級朝礼・学級終礼で、みんなで歌を歌っていました。1970年代にヒットしたフォークソングを毎週1曲ずつ教え、私のギター伴奏で歌っていたのです。
そのときどき、よく歌う学級と、大きな声で歌えない学級とがありました。まさに学級の活力と正比例しています。学級集団の活力が伸びると、不思議と歌声も大きくなっていきました。
逆転の発想ではありませんが、大きな声で歌える学級集団を育てることによって、何事にも前向きに、あふれる活力で取り組むクラスに育てることが出来ます。単純明快な図式です。
ちなみに、君谷小の後に異動した小田小学校も、完全複式の極小規模小学校でした。驚いたのは、全校合唱の声が実に伸びやかだったことです。頭声発生ではありませんでしたが、ほれぼれするほどの声量です。 ……この歌声をぜひ形にして残したいという、私(校長)の希望が受け入れられ、(君谷小と同じく)川本音戯館で「CD」を制作しました。
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A保育所との交流
せっかくですから、君谷小のもう一つの誇りを紹介します。
君谷小へ入学してくるのは、1Kmの距離に位置していた「内田保育所」の幼児の皆さんです。この時の倉橋所長さんは、実に立派な方でした。
どちらかというと、事なかれ主義が主流となってきていた保育所にあって、内田保育所の経営方針は、「わんぱくでもいい、……」。野山で遊ぶのは当たり前。まさに自然児を育てておられました。
その一環として、よく君谷小学校へも “歩いて” 遊びに来ておられました。もともと「運動会」「学習発表会」「とんど祭」など合同で行っていました。そこで提案して始まったのが、合同給食です。
毎月一回、君谷小の校舎内に招き、一緒に給食を食べます。事前には校長室で、絵本の読み聞かせもしました。給食後は、一緒に昼休みを楽しんだり、掃除をしたりしました。そして、児童全員が見送る中を帰っていきました。
先ほどの全校合唱、頭声発生も、入学前から何年も聴いてきています。ですから、「小学生になったら、あんな声でみんなで歌うんだ」という意識を育んで入学してきていました。鼓笛隊にも憧れを抱いて入学してきていました。
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