教員生活を振り返って
(10)
E 赤来中学校
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23.3.6(日)

勤務歴
赴任順 着任年度 着任時
年齢
勤務校等 職名 在職
年数
自宅からの
距離(Km)
1 昭和 49 23 大原郡 大東町立大東中学校 教諭 3 58
2 52 26 邑智郡 羽須美村立阿須那中学校 教諭 4 26
3 56 30 飯石郡 頓原町立頓原中学校 教諭 7 10
4 63 37 飯石郡 吉田村立吉田中学校 教諭 4 24
5 平成 4 41 (出雲市) 出雲教育事務所 指導主事 4 56
6 8 45 飯石郡 赤来町立赤来中学校 教頭 2 1
7 10 47 邑智郡 邑智町立君谷小学校 校長 4 30
8 14 51 飯石郡 赤来町立小田小学校 校長 3 3
9 17 54 飯石郡 飯南町立赤来中学校 校長 6 1


 


学校離れて4年後
再び学校現場へ……。
そこは地元の中学校でした。



ふるさと
赤来中学校へ


 学校以外でのさまざまな経験をさせていただいた、出雲教育事務所の4年間。訪問指導は緊張感を伴いながらも、自らの授業のあり方を振り返る貴重な4年間となりました。また、同年代のりっぱな先生方とのあたたかい人間的な交流は、私にとって大きな心の糧となりました。学校とはひと味違った、楽しく充実した日々を送らせていただきました。

 ただ、どことはなく満たされないもの、……それは「子ども達の声」、「子ども達とのふれあい」です。自分自身が教室に立って授業をしたいという思いも、次第に募ってきてもいました。

 そんな中、[出雲教育事務所]所長さんから告げられた異動は、まったく予想していなかった(ふるさとの)赤来中学校です。なぜ予想外かというと、4月はわが子が2名(次男中1・長女中2)が通う学校だったからです。そのことを所長さんに伺うと、「そういうケースはよくあること」、「いい経験になる」とのことでした。

 もともと「地元の学校で勤めたい(貢献したい)」という思いをずっと抱き続けていた私です。また、それまでの教員生活で、子ども達には「父親の働く姿」をイメージさせる機会は、ほとんどなかったと言えます。 ……ですから、不安とともに、一方では嬉しい気持ちも抱いての赴任となりました。

 平成8年度、赤来中学校は全学年2学級、生徒数139名。中学校としては、クラス同士が競い合い高めあえる、適正規模と私は受け止めました。

平成8年度 平成9年度 平成22年度
(今年度)
1年生 49 39 26
2年生 43 49 23
3年生 47 43 23
139 131 72
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私の母校は
赤来町立来島中学校。
昭和48年4月
赤名中学校と実質統合。
赤来中学校としてスタートしています。








教頭の職務


○ 学校教育法第28条第4項
 教頭は、校長を助け、校務を整理し、
 及び必要に応じ児童の教育をつかさどる。

○ 学校教育法 第28条第5項 
 教頭は、校長に事故があるときはその職務を代理し、
 校長が欠けたときはその職務を行なう。
 この場合において教頭が2人以上あるときは、
 あらかじめ校長が定めた順序で、その職務を代理し、又は行なう。


やり甲斐を感じた
国語の授業


 (準)母校に赴任した私にとって、まわりの空気がすべて親しく感じる、どことはなく心が浮き立つ4月のスタートとなりました。(愛着がないとはいえ)着任式で聞いた校歌が、ぐっと胸に来たことを、今でも思い出します。

 ただ、職名は「教諭」ではありません。子ども達との関わりも、一歩引いたところに位置。最前線に立ってばりばり生徒の中に飛び込んでいく、というわけにはいきません。

 まずは、連日のごとく提出書類の作成に追われる日々を過ごすことになりました。正直言って、とても「楽しい」とか「やり甲斐がある」とかいう仕事とは言えません。(事務職)Yさんに教えてもらいながら、てんやわんやの学校勤務がスタートしました。

 その中でも私が燃えたのは、何といっても国語の授業。授業は1クラス任せてもらえました。ただ、学年2クラスのうちの1クラスです。オリジナルなことは出来ません。教諭時代に行っていたように、教科書の教材配列を一気に組み替えたり、差し替え教材も出来ません。進度も常に意識しないといけません。かなり制限された中での授業ではありました。

 しかし、教諭時代に積み上げた授業方法に加えて、教育事務所時代に拝見し学ばせていただいた、さまざまな授業展開があります。どんな授業を組み立てていくべきか、「楽しく力のつく授業」を念頭に、全身全霊をかけて教壇に立ちました。

 特に嬉しかったのは、全校ぐるみでスタートさせてもらった「漢字小テスト」です。国語の授業がある度に、毎時間最初の5分間を使って実施していました。多くの生徒が前向きに取り組んでくれて、80点以上をとり続ける生徒が7割〜8割。中には、年間100回以上のテストすべて満点という生徒も登場しました。

                

 国語教育の中で特筆すべきは、町内の小学校4校、飯南高校と連携して「赤来町国語教育研究会」を発足したことです。

 たまたま飯南高校に、教育事務所勤務時代に一緒に仕事をさせていただいた(当時;学校教育課指導主事「国語担当」)F先生がおられたことが発端です。意見交換している中で、「子ども達の国語力と、教員の授業力を高めるために、小学校から高校まで授業を公開し合おう」と意気投合したのです。たまたま小学校4校中、3校の校内研究の教科が「国語」、というのもタイミングでした。

 当時は「グループ研究」に対して県教委から補助金(10万円)が交付されるという事業がありました。さっそく申し込んで、研究費も手に入りました。

 まずは「隗より始めよ」です。私が授業公開するとことからスタートしました。高校からF先生他1名、町内小学校4校から4名、赤来中は3名、合計9名の研究会となりました。そのときに公開した教材は『フシダカバチの秘密』です。

 日頃から抱いていた、私の理念てんこ盛りの授業を公開しました。「虫食い学習」
(=漢字の読み・語句の意味の力を付ける)⇒「図式学習」⇒「課題解決学習」⇒「聴解力テスト」という流れです。授業後は研究協議会、夕刻からは場所を移して、懇親会をしながらの意見交換、……。

 この形式で、各学校1回の授業研究会(年間5回)を持ちました。お互いに学ぶところが多々ありました。特に、高校の先生からは、「どんな授業を積み上げて入学してきたのか初めて知った」という感想が聞かれました。また逆に小学校の先生からは、「送り出した子ども達が、中学・高校とどんな風に成長していくのかが分かった」という声がありました。

 当時はあまり意識していませんでしたが、今振り返ってみれば「小中高連携事業」の走りだったと言えます。

 たまたま私が転出した10年度から、「(飯南地域)中高一貫教育」の模索が始まっています。むろん、当時の「赤来町国語教育研究会」とは全く無縁の処からスタートした事業です。

 ちなみに、この研究会ですが、残念なことに私が町外へ転出した後は立ち消えとなりました、……。

               

 私が主導して発足した会が、転出後立ち消えとなったと言えば、実は他にもあります。

@ 飯石郡中学校教頭会
 当時は「飯石郡教頭会」はありました。毎月の定例会を持ちながら、研修と情報交換を行っていました。が、中学校5校に対して小学校は17校。小学校と中学校とは、何かと相違点もあり、腹を割った情報交換会が必要だと考え、他の4中学校に呼びかけて発足。不定期(2〜3ヶ月に1回程度)に集まって懇親会を開いていました。

A 赤来・頓原合同教頭会
 当時、赤来町が中学校1校、小学校4校。頓原町が中学校1校、小学校2校でした。より幅広く親交を温めるとともに、お互いの学校運営に生かそうという趣旨で呼びかけ、発足。Aと同じような会の持ち方でスタートしました。

B 赤来町校長・教頭合同会
 当時、校長会と教頭会とは交差・交流することのない組織でした。そこで、歓迎会・送別会・忘年会・夏(7月)の懇親会を合同で開催。学校相互の校長・教頭同士が親交を温める機会を発足しました。 ……これは教頭から校長に話を持ち出さないと、なかなか動きにくいというアドバイスを、当時の校長先生からいただいて、私(教頭会長)が働きかけたものです。

 しかしながら、いずれも4年後、赤来町に戻ってきたときには存在していませんでした。無理があったのか、必要なかったのか、私が勝手走りしたのか、……。反省したりがっかりしたりした出来事です。

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気になったこと


 田舎の学校ですから、生徒は概ね純朴。のどかな安定した学校生活を過ごしていました。非行に走る生徒や、不登校の生徒もいませんでした。ただ、気になることがいくつかありました。

@ 着任式で
 生徒会長が歓迎の挨拶をしてくれました。わずか20秒〜30秒程度の挨拶にもかかわらず、紙を見ながら朗読というスタイルでした。その後、生徒会関係で前に出て話す(スピーチする)生徒が、ことごとく「紙を見ながら朗読」するのです。せっかくの飛躍のチャンスを(楽をして)つぶしてしまっているのです。

 しばらくしてから、先生方にお願いしました。「人前で話すときには、出来る限り「手ぶら」で登場してスピーチするよう頑張らせて欲しい」と、……。ありがたかったです。先生方も、その趣旨を汲み取って指導・支援してくださいました。生徒もよく頑張ってくれました。いつでもどこでも誰でも、というわけにはいきませんでしたが、一気に雰囲気が変わりました。

A そうじ
 全体としては、まじめに取り組んでいるとは思いました。が、特に男子生徒の方で一部(2〜3割程度)、熱心にやろうという姿勢が見られないのです。私の掃除区域担当はありませんでしたので、校内あちこちの箇所を生徒と一緒に掃除して回っていました。が、4人〜6人の集団でたむろして、掃除をしない集団を見かけることもしばしば。その場ですぐに注意するのですが、雲散霧消。ほとんどイタチごっこです。

 ただ、着任年度の1年生が前向きな集団だったことが、徐々に学校の機運(雰囲気)を変えてくれました。

B 水泳・長距離走など

 掃除とほぼ連動しているのが、こういう種類の活動(授業)だという認識があります。スポーツテスト長距離(中距離?)走では、特に女子集団がとろとろ集団を形成してスタート。一人一人が「自分の限界に挑戦」という雰囲気が見られませんでした。

 一方、水泳の授業はもっと悲惨。時には、女子生徒のうち泳いだ生徒はたった2名という日さえありました。その上がっくりさせられたのは、その2名に私の思い
(大事な姿勢だ、引き続き頑張っていい雰囲気作りに貢献してほしい。)を伝えると、返ってきた言葉が「私たち運動音痴ですから、こういうときに得点稼いでおかないと!」、……。

 私は必死になって個人的に生徒に声をかけたり注意したり、教頭の立場から先生方にお願いしたりしました。見学理由で一番多かったのが「保護者の水泳許可〔印〕忘れ」だったので、「水泳をさせない〔印〕に変更」出来ないか、かけ合ったりもしました。すべてはかばかしい成果を上げることが出来ませんでした。

 が、これまた着任年度の1年生が前向きな集団だったことが、学校を変えてくれました。次年度入学生も、1年先輩に続いてくれたので、学校全体的には「ほぼ全員が泳ぐ」校風が醸成されていきました。

                   

 「朱に交われば赤くなる」と言います。集団の持つ力、集団の雰囲気は大きいと思います。集団の中で「個」が育つし、個が育つと「集団」も成長します。これまでの教員生活で、そういうケースをいっぱい見てきました。

 いずれも、発端は教員の働きかけであり、教職員の一致団結した働きかけだと思っています。黙って見ているだけでは、集団も個も意識改革は出来ないし、変わることはありません、……。

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私と部活動


 私が初めて町教委に挨拶に出向いたとき、Yさん(赤来中のY養護教諭のご主人)とばったり出会いました。そのときに言われた言葉が、「教頭先生にお願いしたいことがあります。家内を早く帰らせてください」。

 Y先生は、赤来中バレー部の主顧問だったのです。私がバレー部顧問が出来るわけでもなく、初日から重荷を背負ってのスタートでした。

 もっとも、デスクワークだけでは欲求不満がたまる私です。放課後5時以降は、運動着に着替えて体育館へと向かう日が、教頭生活が一段落する頃から始まりました。

 もっとも、せっかくY先生が一生懸命指導しておられるバレー部の邪魔をしようという意図は全くありません。Y先生からも「手伝ってください」と日頃から懇願されていましたが、それはあくまでも補助的なお手伝いです。

 ですから、もっぱら私の役目は、1年生(初心者)指導です。ステージや外(校舎前)で、球拾いの交替をさせながら、2〜3人ずつ個別指導をするのが日課となっていました。

 ただ、Y先生に早く帰宅してもらうという流れは作り出せませんでした。Y先生合ってのバレー部だし、Y先生も熱心なタイプでもありました。その上、ご主人もご自身の娘さんがバレーを始めた(大活躍)こともあり、だんだん嵌って行かれました。バレー指導へのご理解も次第に深まったということです。

 結局、私の在任した2年間、赤来中バレー部は(1位は替わるのに)「万年2位」に甘んじ続けました。でも、日頃の部活動にかける意気込み、姿勢は立派でしたので、部活動引退後の生徒の皆さんには、それぞれに貴重な財産が残ったことと確信しています。

 ちなみに、私の愚息は野球部、愚娘は吹奏楽部の所属。生徒の立場から注意も受けました。「おとうさん、教頭なんだけぇ〜、バレー部ばっかり出とっちゃあいけんのじゃぁない?!」。 ……この指摘当たっていると思いました。

 ですから、バレー部どっぷりではなく、体育館隣で活動していたバスケット部、校庭の野球部の部活動にも、時々参加していました。「時々」というのは、顧問の先生から頼まれたり、顧問の先生がおられないとき(日)という意味です。ただ見守る役目に徹する、というのがスタンスでした。

 ただ、気が乗ると野球部のノックもしました。悲惨な目にも遭いました。その日のうちに「手まめ」が出来て、その日のうちに潰れるという経験もしました。「おとうさん、短パン姿で野球部に現れんでよ!」と厳重注意を受けたこともありました、……。

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毎年
県大会へは出場出来ました。








PTAバレー
スポ小バレー


 吉田中学校3年目(平成2年度)途中から、部活動の第一線を退いていた私です。これでバレーボールとは縁が切れたかな? と思っていたところへ、ママさんと小学生と2つが生活の中に入ってくることとなりました。

 平成4年4月、長男が来島小6年生に進級するとともに、「PTA会長」の役を務めました。同時に、PTAバレーとの関わりがスタート。一方では、平成8年4月、赤来フレンズ(スポ小バレー)が発足。こちらへの関わりがスタートして、今日に至っています。



年度 勤務 PTAバレー
所属
備  考
平成4年度 出雲教育事務所 来島小 来島小PTA会長
PTAバレーとの関わりスタート
5年度 出雲教育事務所 来島小 来島小PTA「保体部長」
PTAバレー監督のスタート
6年度 出雲教育事務所 来島小
7年度 出雲教育事務所 来島小
8年度 赤来中 赤来中 スポ小バレー発足(毎週土曜日練習)
スポ小バレーコーチのスタート
9年度 赤来中 赤来中
10年度 君谷小 赤来中 この年度で末っ子が赤来中卒業
11年度 君谷小 赤名小 (シーズン中は週2回練習)
12年度 君谷小 赤名小 飯石郡PTAバレー優勝
13年度 君谷小 赤名小
14年度 小田小 小田小
15年度 小田小 小田小
16年度 小田小 小田小 飯石郡PTAバレー大会終了
17年度 赤来中 赤来中 17.1.1 町村合併(飯南町発足)
18年度 赤来中 赤来中 飯南町PTAバレー大会終了
PTAバレー監督の終了
19年度 赤来中
20年度 赤来中
21年度 赤来中
22年度 赤来中




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エジプトへの旅行


 職員室の雰囲気は温かく活気にあふれ、おおむね良好でした。ただ、それまでの学校で毎年恒例行事だった「職員旅行」がありません。そのことを先生方に投げかけると、さっそく世話をする先生(O先生・K先生など)が現れて、ささやかではありましたが「津和野・萩方面」への1泊2日が実現しました。

       

 旅行と言えば「町教頭会」です。初年度から毎月定例の教頭会は、時々町外に場所を移して実施していました。地域おこしの石見町、出西窯、銅鐸発見の加茂町など、見識を深めるとともに、(講師の先生を囲んで)夜の懇親会も開いてきていました。

 その流れの中で実現したのが「エジプトの旅」です。当時、赤来町では教頭会に研修視察費10万円が交付されていました。これをエジプトへの視察に活用できないかと、当時の教育長さんに相談したところ、快諾を得ました。今から考えると、すごい決断だと思います。

 しかし、視点を変えれば、「教員海外研修」と趣旨は同じ。狭い世界で学校教育を行うのではなく、広い世界に飛び出して視野を広めることも、教員には必要だと思います。そのための公的支援は、間違ってはいないと思っています。

 世界四大文明の発祥地。それはそれは壮大な、想像を絶する世界でした。これについては、今回の趣旨と違うので深入りしませんが、教頭同士の心の絆を深める一助にもなりました。

 この5名の交流は、その後も定期的に続いています。昨年8月には、ベトナムに行って来ました。

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22.09.05(日) ベトナム事情(bS)

22.08.29(日) ベトナム事情(bR)
22.08.15(日) ベトナム事情(bQ)
22.08.08(日) ベトナム事情(bP)









同じ学校の屋根の下で……


 わが子2名が在籍する中学校での勤務は、やはり陰に陽に気を遣いました。いや、気を遣われたのは先生方だと思います。保護者面談は、その気になれば日常的に行えます。たぶん省略したときもあったように思います。 ……本当に申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました。厚く感謝申し上げます。

 わが子から、時々本音の注意・忠告をもらうこともありました。いちばん多かったのは「話が長い」です。特に校内弁論大会、体育祭閉会式の挨拶では、2人そろってこっぴどく注意を受けました。

 そういう流れの中にあって、こんな出来事もありました。国道54号の清掃作業の日、出発式が今まさに始まろうとするとき、校長先生に電話がありました。すると、校長挨拶を急に私に託して、校長先生は校舎へと向かわれました。私は内容を考える隙間もなく、生徒の前に立ちました。

 前へ出る道々、思い浮かんだのは「話が長い!」という忠告です。話した内容は忘れましたが、あっけなく一気に終えました。そして、その日の夕食です。子ども達に、「きょうのお父さんの話は短うてよかっただろう」と話しかけると、2人から反応がありません。しばらく間を置いて、愚息がぽそっといった言葉が、「お父さん、言うべきことは言わんといけんわね!」、……。

 ただ、当時も今も思うことは、父親が職務に専念して頑張っている姿を、同じ屋根の下で2年間見る機会があったということは、これは一つの財産だと、密かに思ってはいるところです。

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思いがけない異動が浮上


 赤来中勤務2年目の6月、校長先生から「管理職(校長)昇任試験」の要項と願書を手渡しながら、思いがけないことを言われました。「教育長さんからの願いでもあるので、校長昇任試験を受けましょう」。

 やっとふるさとの学校へ戻ってきた私です。4年〜5年は貢献するつもりでいました。唐突な提案です。その旨伝えて辞退すると、「試験は一回では、なかなか合格出来るものではない」、「早めに一度は体験しておくことが大事だ」、「昇任試験の勉強を通して視野が広がる、学校運営にも役立つ」とのことでした。 ……即答を避けたその夜のことです。

 当時、島根県教委(学校教育課)に勤務していた愚弟から電話がありました。まだ44歳という若さ(=受検資格最年少)だというのに、校長試験を受けるというのです。その理由は忘れましたが、「たとえ合格してもすぐに学校現場へ出るわけではないが、兄貴には報告しておくべきだと思って電話した」との趣旨でした。

 その後、教育長さんから「たとえ昇任試験に合格しても、翌年度は異動はさせない」(当時は、合格した翌年度には大半が昇任)という、ありがたい言葉もいただきました。もし合格しても、3年間勤務したら一応の区切り。今度は校長として貢献するときが来る。 ……結局、試験を受けることを決断。

 まったく想定外だったので、それに向けての勉強が、全くの白紙です。夏休みに入ると毎晩、まさに怒濤のような自学自習がスタートしました。校長昇任試験は客観テストがありません。教育論文が2本(学校管理と学校教育)です。学習内容は、それに沿っての準備となります。

                   

 結果、幸運にも「合格通知」をいただきました。そして、異動については「上司一任」としながらも、「もう一年は留任」ということで時間が推移していました。

 ところが、2月下旬になって突然、校長先生から思いがけない異動の話を告げられました。 ……Y市の方で議員さんが教職員異動に関わった事例が発覚、すべての人事異動(管理職関係)がご破算になった。ついては、その流れの中で私は異動せざるを得なくなった、というのです。

 しかも異動先は、全くの想定外の小学校。ただし、意外と近い学校とのことでした。風雲急を告げる、とはこのことです。私自身の中には、まだまだ不消化のことだらけ。せっかく、やっと地元の学校勤務2年を終わるところに過ぎません。はっきり言って、まさに不本意な異動です。それからしばらくの期間は、私の中では「心の整理整頓」と、物理的な整理整頓に追われることとなりました。

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異動が告げられた卒業式前
校舎裏山への道筋に
桜の苗木の植樹です。








【追記】
平成9年度と10年度
つまりわが子が3年生の冬休み(正月明け)
三瓶青年の家で2泊3日の
徹底した受験合宿(受験勉強会)を行いました。
主催は保護者会ということにし
お世話は私がしました。
赤来中の先生方(5教科担当)も
積極的に快く協力してくださいました。
福住校長先生(数学)も来てくださいました。
それ以後
残念ながら立ち消えになってしまいましたが
私の自己評価としては
生徒達の怠け心に活を入れ
受験勉強に立ち向かう姿勢を培う上で
かなり成果を上げたのではないかと
自画自賛しています。

 15.12.27(日) 「勉強合宿を始めるに当たって」(努力bPをめざせ!)
 15.12.21(日) 「勉強合宿を終わるに当たって」(勉強をがんばる意味)