教員生活を振り返って
(9)
D 出雲教育事務所
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23.2.27(日)


最初の部屋へもどる

4校18年間
怒濤のような学校勤務が終わると
思いがけない勤務が待っていました。
そこは、学校世界とは全然違う
まさに別天地でした、……。


勤務歴
赴任順 着任年度 着任時
年齢
勤務校等 職名 在職
年数
自宅からの
距離(Km)
1 昭和 49 23 大原郡 大東町立大東中学校 教諭 3 58
2 52 26 邑智郡 羽須美村立阿須那中学校 教諭 4 26
3 56 30 飯石郡 頓原町立頓原中学校 教諭 7 10
4 63 37 飯石郡 吉田村立吉田中学校 教諭 4 24
5 平成 4 41 (出雲市) 出雲教育事務所 指導主事 4 56
6 8 45 飯石郡 赤来町立赤来中学校 教頭 2 1
7 10 47 邑智郡 邑智町立君谷小学校 校長 4 30
8 14 51 飯石郡 赤来町立小田小学校 校長 3 3
9 17 54 飯石郡 飯南町立赤来中学校 校長 6 1


 



教育事務所は
学校とは違った世界


 全くの想定外、予想だにしなかった行政への転進です。転勤するたびに、すべてがリセット。さまざまな「垢」を洗い流して心機一転、新たなスタートが切れるのが魅力です。 ……しかしながら、今回だけは先の予測がつきません。

 まさに期待より、遙かに不安の大きい4月となりました。これまで出雲教育事務所を訪ねたことがあるのは、海外研修と中央研修の挨拶です。いずれも緊張した雰囲気の中での訪問。堅苦しいイメージしか残っていません。 ……とりあえずの準備としてまずは、(ブレザー派だった私は、)あわてて新しい背広を2着購入しました。

 出雲教育事務所「学校教育班」への異動は2名。もう一人は、2歳年上のM先生(保健体育)。なお、学校教育班の構成は7名。国・社・数(算)・理・英・保体・生徒指導です。他の5名はいずれも大先輩、50歳前後の方ばかりでした。しかも、私は「教諭」の肩書きしかないのに、他の6名の方は、「校長」か「教頭」にすでに合格した方ばかりです。「緊張するな」というのが無理です。

                  

 着任してからしばらくは、「指導主事会」という会議の連続でした。今でも忘れません。自分がこの輪の中に座っていること自体が、何だかミスマッチ、……。居心地の悪さばかりが記憶に残っています。

 しかし、日ごとに心が和んでいきました。学校教育班の(他の6人の)先生方は、いずれも人間的に立派な方ばかり。新参者の若造を大事にしてくださっているのが、陰に陽に伝わってきました。

 通勤ルートはいくつかある中で、基本的に2ルート。最短距離は、佐田経由の56Kmです。が、このルートは(当時)朝は最悪。出雲市立南中学校あたりから、毎朝大渋滞なのです。やむなく出勤時は、三刀屋まわり⇒上津土手経由の64Km。約1時間10分かかっていました。(帰路は、佐田まわり約1時間。)

 駐車場から合同庁舎5階にある「出雲教育事務所」まで5分かかるので、実質的には1時間15分です。さすがに4月中、到着するだけでぐったり。しばらく午前中の前半はぼーっとして、仕事に集中出来る状態ではありませんでした。

 ただ、幸いだったのは、出勤時刻が8時30分だった上、「職員朝礼」なるものがありません。最悪、遅刻しても特段問題がない職場でした。

 実際、冬期間には豪雪の朝があります。そんな朝の出発は、(通常7時前後のところ)まだ辺りが暗い6時半頃。それでも、時には10時前後に到着、という日も年に1〜2回はありました。豪雪を予想して、前夜から出雲のホテルに泊まり込む日もありました。

 授業があるわけでもありません。会議があるとき以外は、人に迷惑がかかりません。そんな日(10時前後に到着した日)には、皆さんがあたたかく迎えてくださいました。いっせいにかけてくださった言葉が、「ごくろうさん!」。そして、「無理して出てくることはなかったのに、……。」、「家で仕事をしてもよかったのに、……。」という思いやりの言葉です。

 さらには、午後3時ともなると総務の方が、「はい、烏田せんせい、(地教委あての)荷物が出来ましたよ。よろしくお願いします。」と声をかけてくださいます。つまり、早く退庁しましょう、という配慮なのです。

 我が家までのルートに位置する、三刀屋町教委⇒掛合町教委⇒頓原町教委、そして赤来町教委へと、宅急便代わりの配達を頼まれるわけです。着任前に抱いていた教育事務所のイメージは一変、中で生活してみると、とても家庭的で、すこぶるあたたかいことを知りました。

                   

 そして嬉しかったこと、それは5時には退庁出来たことです。近年の教育事務所事情は、5時退庁は夢のまた夢のようです。どこがどう違ってきたのか分かりませんが、(当時は私に限らず基本的に)5時には堂々とお鞄をして合同庁舎を出ていました。
 ⇒もっとも、ほぼ連日、持ち帰り仕事はしていました。とりわけ「訪問指導」まっただ中の時期は、前日に学習指導案を事前研究という「綱渡り」のような毎日を過ごしていました。

 しかも、平成4年といえば、ちょうど「
週休二日制」の試行 ⇒本格実施へと動く時期でした。行政は完全「週休二日制」に移行してしまっても、学校は行政から かなり遅れて「学校週五日制」へと移行しました。

 5時退庁、部活動なし、毎週お休みが2日、……以前の私の怒濤のような毎日からは、予想だにしなかった日々が転がり込んできました。

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出雲教育事務所着任は、平成4年4月1日

1992年(平成 4年)5月1日から国家公務員の完全週休二日制を実施した。

1992年(平成 4年)9月12日から、公立小中高等学校は、毎月第2土曜日が休業日になった。
1995年(平成 7年)4月22日から、第2土曜日に加え、第4土曜日も休業日となった。
2002年(平成14年)4月 1日から、学習指導要領の改訂に合わせ、毎週土曜日が休業日となった。








小・中・高校の先生


 私に割り当てられた主な業務は、「国語教育」、「初任者研修」、「特殊教育」(現;特別支援教育)。着任初日から連日、まずは必死になっていたのが初任者研修です。

 着任年度は、出雲教育事務所管内で約60名の教員配置がありました。提出書類が複雑で、実に面倒なのです。しかも、学校から提出される書類が不備だらけ。該当校と(県教委)「学校教育課」
(=当時、現在は義務教育課)との間に入り、右往左往の仕事始めではありました。

 管内の初任者を集めての研修会の設定や世話も、まもなく始まりました。慣れない起案書や送付文書の作成、……とんでもないところにやってきたと思いました。

               

 小学校と中学校とは、何かと違いがあると感じました。一概には言えませんが、小学校は生真面目でルール通りにきちんと実施。提出書類も、おおむねきちんとしている。その点、中学校は何かにつけておおざっぱ。締め切りも遅れがち。書類も不備が多くててんやわんや、……。
(たいへんごめんなさい。事実でした。)

 そういえば、松江教育センターの指導主事の先生(国語科担当)が、研修講座受講の先生方の雰囲気を語っておられました。

 
「グループ協議を設けると、小学校の先生方は賑やかで楽しそうな雰囲気で話し合われる。中学校は少し固い雰囲気。高校になると、腕組みをして沈黙の時間が多い。」 ……毎日毎日ふれあう子ども達の違いが、教員に反映しているのでしょうか?

 5月中旬から「学校訪問指導」が始まります。これについては、項目を改めますが、中学校にずっと生活してきた私には、「小学校」は魅力的に感じました。職員(研修)会議の雰囲気が、(一概には言えませんが)全体として一つにまとまり、あたたかい印象が残っています。

               

 特殊教育の担当も任されました。免許所有者であることがその理由として伝えられました。しかし、免許は取得はしましたが、現場実践はありません。もっとも、これに関する訪問指導はすこぶる回数が少なくて、その点では助かりました。(出雲教育事務所)「管内指導員制度」があったからです。

 特殊教育の他にも、美術・家庭科・技術・音楽については、学校現場の先生の中から優秀な先生を指名し、一年間「訪問指導」を担当してもらっていました。

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訪問指導
【国語】


 5月中旬から、「訪問指導」が始まります。多い時期は、5月中旬〜7月初旬、9月中旬〜11月下旬。この間、月曜日(=指導主事会)を除いては、訪問指導がびっしりと入ります。ですから、教育事務所への出勤は毎週月曜日のみ。7人いる指導主事が全員そろうのも毎週一回のみ、「久しぶりだねぇ〜! 元気だった?」が挨拶代わりです。そんな変わった職場となります。

 訪問指導には2種類ありました。「計画訪問」(各学校が必ず一回、義務づけられた訪問指導)と「申請訪問」(計画訪問以外に学校独自に申請する訪問指導)です。

 「計画訪問」の場合、基本的には「教科」「道徳」(または「学級活動」)の2時間、授業公開が原則でした。小学校は、概ね原則通りに実施。午前中3〜4時間目に公開授業(研究授業)、午後は放課にして「(校内)授業研究会」という設定でした。 ……我が家から直接、該当の学校へ出かけ、そして帰宅するスタイルの勤務です。

               

 初任者研修担当もあって、初任者配置の小学校の大半は、私が訪問しました。初任者は、不思議と(必然?)3年生か4年生を担当しておられました。ですから、国語の授業は同じ教材を何度となく拝見しました。

 小学校の教科書は見たこともなかった私です。同じ教材で授業公開してもらうことは、実に助かりました。一つの教材でも、いろんな視点からさまざまな授業展開があるものだと、新鮮な気持ちで授業参観させていただきました。

 初任者研修にあっては、基本的に元気を出して、やる気をわかせてもらわないといけません。それが、私に与えられた任務だと胸に刻んでの訪問指導でした。授業を観ながら、認める場面を一生懸命探します。

 研究協議会では、先生方の感想や意見を聞きながら、自分のメモと突き合わせ、(私が最後に話す内容を)構造的に組み立てて行かねばなりません。今後の課題(注意すべき点)があれば、上手にサンドイッチにして話さないといけません。これがまた、とてつもなく大変な作業でした。

               

 私に割り当てられた時間は、15分〜30分が大半です。事前に質問事項がたくさん送られたときには、1時間の設定がしてあるときもあります。いずれにしても、話す内容と話し方などプレゼンテーション能力が、その都度「まな板の鯉」となります。訪問指導とはいいながら、実は学んだり鍛えられたりしたのは、他でもない自分自身です。

 私の裏技は「付箋」です。基本的に5種類(色)準備します。

@[事前] 当日、話題(課題)となるだろう内容のキーワード(←書物)
A[事前] 事前に送られてくる学習指導案からの気づきメモ

B[当日] 授業を参観しながら、気づいたことのメモ
C[当日] 研究協議会から、(取り上げるべき)先生方の発言メモ
D[当日] 研究協議会から、自分自身の気づきメモ


 上記@〜Dを、研究協議会の中で合体し、「指導助言」として話す内容を「構造化」(図式化)していきます。ただし、研究協議会中、先生方が発言しておられるときは、最大限そちらに視線を向けて、真摯な態度で聞かないといけません。合体・構造化作業は、決して楽ではありません。でも、密かに私は、緊張感とともに充実感を覚える、楽しい時間でもありました。

 では、私は立派な指導助言をしたのか? ……それはまた別問題です。すべてが終わって帰路につく車中、満足感、充実感などに包まれることは、そう多くはありません。物足りなさ、反省が大半です。

               

 指導主事として4年間、本当に多くの授業を拝見しました。ざっと数えて、国語は約150回、道徳が約50回、学級活動が約20回といったところです。これだけ多くの授業を短期間に拝見するのは、指導主事以外はほとんどないと思われます。

 しかも、各学校、各先生が全身全霊をかけて準備し、公開された授業ばかりです。すごいことです。いちばん研修を積ませてもらっているのは、他ならぬ自分自身でした。考えてみれば、幸せな4年間ではありました。

               

 国語の授業について言えば、小学校で数多く拝見した「文学作品を扱った授業」は、大いに参考になりました。私の場合、大半が一読総合法、課題解決学習というパターンでした。が、小学校では実にさまざまな授業展開をしておられることを知りました。

 ただ残念だったのは、漢字や語句を取り上げた学習指導を拝見することが、ほとんどなかったことです。多くの授業は、全員が読めて意味が分かることを前提とした授業でした。

 一方、「説明的文章」を扱った授業では、その多くが理科になったり社会科になったり道徳になったり、環境教育になったり福祉教育になったり、……。「内容教科」のような印象の強い授業がほとんどでした。

 教科書に掲載されている教材を使って、こんな学力(国語力)を高めるんだ! という明確な目標、気概が感じられる授業は、失礼ながら生意気なことを言いますが、(中学校も含めて)あまり多くありませんでした。

 平成4年度から実施された学習指導要領では、特に「音声言語」と「作文」が重視されました。とりわけ小学校では、この課題を真摯にとらえて、前向きに授業公開もされていました。「文学的文章を扱う授業」の次に多く拝見しました。

 ただ、確かに前向きに真摯に取り組んではおられるのですが、学力を高める(「聞き取り能力」、「スピーチ能力」、「話し合う能力」を確かに高めている)という視点からは、物足りなさをいつも感じていました。

 しかしながら、では研究協議会の折に、自分が実践した学習方法などを披露したか? と言うと、最初の頃を除けばほとんどありません。 ……というのは、訪問指導の初め頃は、えらそうに披露もしていました。が、そういう日は、ほぼ帰路の車中、むなしさ気まずさばかりが残りました。学校現場では、自分たちが積み上げた実践内容に基づいて指導して欲しいのです。人間、そうしたものです。

 もっとも、雰囲気によっては、明らかに手詰まり感を打破すべく、新たな実践を求めておられる学校、先生もありました。それを確かに感じたときには、他校の優れた実践を紹介するとともに、私自身の成功例も織り交ぜて披露することがありました。 ……そういう日の帰路は、自分の実践を紹介してもさわやかでした。

 私の実践例としては、音声言語は、(今まさに赤来中学校で行っている)「要約学習」の原型です。漢字・語句の指導は虫食い方法、習得は小テスト。説明的文章の場合は「図式」。文学的文章の場合は「一読総合法」。古典は徹底した名文暗唱です。

 そしてまた、訪問指導をしたときいただいた学習プリント(ワークシート)は、特に選りすぐって小冊子を作成。(すべての学校にではありませんでしたが)翌年度の訪問指導の際に、訪問指導校に置いて帰りました。

 結論的には、授業を公開してくださった先生方、本当にありがとうございました。貴重なかけがえのない研修を積ませていただきました。

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訪問指導
【道徳の時間】


 道徳については、「頓原中時代」のところで紹介しましたが、「井上道徳」を基盤に、私流を確立していただけに、平成年代に入った頃から始まった「瀬戸道徳」は、どうもしっくりと受け入れることが出来ていませんでした。

 もっとも私の担任学級時代には、(十分「道徳の時間」が成立していたので)「瀬戸道徳」を無視していました。しかしながら、指導主事は「瀬戸道徳」を指導して歩く立場です。このミスマッチ。学校現場でも「価値の主体的自覚の時間」などで悩んでおられただけに、本当に苦しかったです。

 ただ、驚いたのは「瀬戸スタイル」で「道徳の時間」を展開すれば、初任者でもベテランのような授業が出来るということです。温泉津小学校で拝見した「道徳の時間」は、大いなる発見でもあり、驚きでもありました。

                

 なお、私が導入していた「自由発言方式」は、「道徳の時間」ではなく、「学級会(話し合い活動)」で、大いにアピールした素晴らしい授業を拝見しました。平成7年度の県教育研究会大会、掛合小6年生の授業です。

 事前に授業研究会で拝見した、このクラスの学級会は、司会・記録など置いた正式スタイルでした。が、この司会者がじゃま。せっかくパワフルに意見を発表したい雰囲気を、司会者が止めたり邪魔したりしているのです。そこで、当時のN先生に「自由発言方式」を試すよう提言しました。

 本番の授業は、「コの字」に並んだスタイルで、(やけに固い雰囲気を醸し出す)司会者がいません。(授業の流れをタイミング悪くちょん切る)板書記録係もいません。発言する児童は、自由に起立してどんどん意見発表をします。N先生は、最初の言葉を述べると、参観者に紛れ込んでしまわれました。 ……ところが、児童の皆さんはのびのびと、存分に意見交換をしあうとともに、発言の中に「そろそろ、こういう意見にまとめたらどうでしょうか?」などと、会議を進行する発言も、タイミングよく出てくるのです。

 素晴らしい、驚くべき、県教育研究大会の歴史に残る(=これは不明)授業でした。

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訪問指導
【保育所・幼稚園の巻】


 意地悪な? 訪問指導が、指導主事全員に(年一回)課せられていました。それは、全く門外漢の「保育所」か「幼稚園」への訪問指導です。

 何せこちらは全くのど素人、向こうは保育の専門家(プロ)です。こんな過酷な設定はありません。大失敗の年がありました。K幼稚園の訪問指導です。

 その日は天気に恵まれて、外遊びの保育を参観しました。基本的に自由遊びですが、時々笛が鳴って全員が集められ、かけっこをする場面もありました。事件は、自由保育の時に起こりました。

 「おじちゃん、見とってよぉー!」の声に返事をして、鉄棒のコウモリぶら下がりを見学。(たぶん)「すごいねぇ〜〜!」とお褒めの言葉をかけました。すると、まわり中から「みとってよ」の声、(見てくれと)服を引っ張る幼児、……。完全に幼児の中に取り込まれてしまいました。この間、おそらくは5分間ぐらいはあったと思います。

 これが、幼稚園の先生方の逆鱗に触れました。その後のことについては、記述するに耐えられません。研究協議会では、完全に干されました、……。実に惨めで思い出したくない記憶です。

 もともと、訪問指導の資格すらないのです。無理です。前日に慌てて「幼稚園要領」を読むような、無責任で情けない私には、いずれにしても荷が重たかったということです。

              

 この関連で、話題は前に戻りますが、「複式学級」の授業を初めて拝見したときには、まさにカルチャーショックでした。算数の「わたりの授業」は目の玉が飛び出ました。すごい世界があることを知りました。

 算数の授業の指導助言は、さすがにありませんでした。しかし、国語の授業が、A年度・B年度という設定で、2学年にまたがる教科書を織り交ぜながら使用しておられるのです。致し方ないと言えばそうなのですが、小学校時代の一学年の差は、埋めようがないほどすごいものです。それでなくても学力差があるのに、3年生が4年生の教科書教材で(4年生と一緒に)授業をするのです。

 この複式授業の実態さえ知らなかった私に、現場の先生方は容赦なく質問を浴びせてこられます。「3年生の実態として、こういう発問はしていいものでしょうか?」 ⇒⇒えっ? それは、経験者のあなた方に、私の方が聞きたいぐらいの話です、……。

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レインボークラブ


 それにしても、本当に楽しい4年間ではありました。

 昼休み、みんなで楽しんだ囲碁やテニス。アフターファイブや週末楽しんだゴルフ(=打ちっ放し)、ボーリング、海釣り、ソフトボール……。宿泊付きの研修プラス宴会の数々、……。

 夏休み中の慰安旅行(屋島・飛騨高山など)、2月の研修視察(福岡・名古屋など)も、ほのぼのとした思い出として残っています。慰安旅行はむろん手出しでしたが、研修視察は(訪問指導など)旅費残を活用しての2泊3日でした。

                

 とりわけ、私にとって大きかったのは「囲碁」です。初めは6級と判定を受けました。が、連日のごとく昼休みに楽しんでいるうちに、一年後には初段の認定を受け、先輩のお世話により日本棋院から「免状」をいただきました。

 昼休みの弁当は5分間で食べ終え、歯磨きをすますとすぐに対局開始です。事務所内に(多い日で)5面も並びました。時には、土木事務所などとの対局もありました。

 教育事務所内囲碁大会も、毎月の定例会が行われ、賞状・かわいい盾も授与されていました。年一回(7月第3土曜日)はOBにも声をかけ、簸川の温泉で「大囲碁大会」(=数年前に中止)も催されていました。

 この流れを受けて、私は実家の町内にある「囲碁クラブ」に入会、毎週土曜午後は足を運びました。 ⇒再び学校に戻ってからは、多忙で足が遠のいて今日に至っています、……。

                

 指導主事は毎年1〜2人ずつの入れ替えがありましたが、2年目からは「レインボークラブ」と命名して、より親密感の増した仲間となりました。

 とりわけT先生を班長とした仲間は、現在も毎年交流が続いています。2日前にも、私の退職祝いの会を5月連休明けに開く、その準備会呑み会をしていると携帯電話がありました。囲碁の会は10名前後が、7月第1土曜日に集って、今でも交流が続いています。

 それもこれも行政勤務があったからこその、とびっきり思い出深い4年間ではありました。ちなみに、私の在任中の4年間、最初から最後まで年齢が一番下のまま。かわいがられっぱなしの4年間ではありました、……。

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教育事務所を
離れるときがやってきました


 指導主事としての経験は、訪問指導の他に(当時の)文部省が主催する全国規模の研修会への参加、大きな研究大会や会議における挨拶、試験問題作問委員会の業務、『管内の教育』執筆活動、教育論文審査など、学校現場では体験出来ないこともたくさんありました。

               

 なお、教育事務所勤務となった年(8月下旬)には「教頭昇任試験」を受けました。学校を訪問するとき「教諭」肩書きでは、どことはなく肩身の狭い思いをしていたことが、一番の理由です。

 教育論文は何とかなるにしても、「客観テスト」への準備は大学受験生並みの体験をしました。帰宅後、日課のランニング(6Km)、入浴・夕食を済ませると、自分の部屋にこもり、毎晩3時間近く必死で勉強しました。「赤本」(=学校教育関係法規集)が手あかで汚れるまで頑張りました。

 ただし、教頭に昇任したとはいっても学校勤務ではありません。教頭の俸給表に準じて給与は支払われますが、「管理職手当」の支給はありません。

                

 上述したように訪問指導の際は、(時には豪華過ぎる)昼食の他に、手みやげまでいただいていました。それに加えて「申請訪問」の場合には、(教育事務所から旅費の支給がなかった関係上)該当校から相当額、金封をいただいていました。疑問に感じていた一つです、……。

 案の定、私が学校に異動した年(平成8年度)、出雲市内の2校でPTA会費から(指導主事へ)支払いが行われていることが発覚、問題となりました。

 以後は、申請訪問も県費(旅費)支給となりました。併せて、「昼食もご馳走になってはいけない」、「手みやげもまかりならない」というお達しが出されました。 ……確かに本来あるべき姿には違いありませんが、何だか一気に世知辛いことになってしまったものです。

               

 指導主事の在任は、概ね3年〜5年です。私も4年目が終わろうとするにあたり、所長さんから「異動」を打診されました。むろん上司一任ではありますが、学校現場へ戻して欲しい旨伝えました。

 教育事務所は、緊張感を伴う訪問指導はありましたが、全体的にはとびっきり楽しく充実感に包まれた日々を過ごしていました。が、やっぱり恋しいのは「子ども達の声」です。

 そして3月、所長さんから言い渡された新たな勤務校は、我が家から1Kmの距離にある、赤来中学校でした。とうとう念願かなっての異動です。ただ、一つの懸念材料がありました、……。

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