教員生活を振り返って
(8)
C 吉田中学校

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23.2.20(日)


最初の部屋へもどる

生まれ故郷への赴任希望が叶わず
心身ともに
次第に無理が利かなくなりつつあった40歳を直前にして
吉田中での勤務がスタートしました。


勤務歴
赴任順 着任年度 着任時
年齢
勤務校等 職名 在職
年数
自宅からの
距離(Km)
1 昭和 49 23 大原郡 大東町立大東中学校 教諭 3 58
2 52 26 邑智郡 羽須美村立阿須那中学校 教諭 4 26
3 56 30 飯石郡 頓原町立頓原中学校 教諭 7 10
4 63 37 飯石郡 吉田村立吉田中学校 教諭 4 24
5 平成 4 41 (出雲市) 出雲教育事務所 指導主事 4 56
6 8 45 飯石郡 赤来町立赤来中学校 教頭 2 1
7 10 47 邑智郡 邑智町立君谷小学校 校長 4 30
8 14 51 飯石郡 赤来町立小田小学校 校長 3 3
9 17 55 飯石郡 飯南町立赤来中学校 校長 6 1


 



運命の糸にたぐり寄せられて


 夏休み中、午前中は体重が2Kg近く減るほどに汗をかく(バレー部)部活動。シャワーを浴びてネクタイを締めると、今度は真夏の昼下がりから夕刻にかけて、家庭訪問。その上、夜はPTAバレーに出るときさえ、……! しかし、翌日はまたけろっとして、体育館に元気な声を響かせる疲れ知らず。

 体力・気力・精神力ともに充実した30歳代、無我夢中で教員生活を駆け抜けた7年間でした。が、ふと気がついてみると気になるのは、ふるさと赤来中学校に全く貢献していないという欠落感です。そのふるさとの学校は、何かと生徒指導上の問題が吹き出してもいました。その影響からか、飯南高校も敬遠されがちな学校となっていました。

 そろそろ無理が利かなくなってきている体、それとはなく自覚症状が現れ始めた36歳、……。そんなとき、赤来中の国語の先生が異動されるという情報が、風の便りで届きました。担任、部活動を中心に第一線で活躍出来る(生まれ故郷へ貢献できる)、最後のチャンスという気持ちが一気にふくらみました。

 12月の異動調書には、気持ちを固めて「赤来中」と記入。 ⇒⇒⇒ところが、年が改まって早々、校長先生から思いがけないことを告げられたのです。「一年前から、吉田中が決まっている」というのです。全く本人はあずかり知らぬ、寝耳に水の話です。

 たまたま、当時の吉田中の校長先生が、頓原中で一緒に勤務した(当時)教頭先生。悩んだあげく、懇願するため三刀屋の自宅まで出かけました。 ……ところが、一年間期限付き講師の先生を置いて、私の赴任を待っているとの説得。それはそれはありがたい、もったいない話。逆に説得される始末です。

 まさに過大評価。そんなに大それた教員でないことは、自分自身が一番分かっています。赤来中への思いが断ち切れないこともありました。が、話し合いは平行線のまま、結論持ち越しで帰宅したものです、……。

 そして、家内相談の結果、請われる吉田中へ。運命の糸にたぐり寄せられるように、次の異動校が決まりました。

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誇らしい学級を担任
その一方では……汚点も……


 希望どおり、学級担任を与えていただきました。2年生22名(男子12名・女子10名)、これがまた優秀な学級集団でした。

 頓原中では、特に最終担任学級も、自分としては自慢の学級集団でした。

 成績は雲南三郡で常にベスト3、個人成績400点以上がコンスタントに(通常は3〜5人のところ)10人を超していました。部活動も大活躍、自主的活動も担任は傍観者でいいほどのパワーを持っていました。

 しかし、新しく担任した学級集団は、すでにそのレベルに達していました。成績(学級平均)は、雲南地区で断然トップ。何事もどんどん自分たちで「事を進めていく」のです。(下の)写真で紹介するように、文化祭「劇」も、台本から演出・小道具類まで、すべて自分たちの力でやり遂げました。恐るべし! 今振り返っても、実に居心地のいい、たくましい子ども達に恵まれたものです。


 ただ、たった一回、とんでもない事件が起きました。下駄箱の運動靴がカッターナイフで切られる事件です。同じクラスメートが犯人でした。 ……なぜ犯人が分かったか?

 「絶対許せない悪質な行為だ」と怒りをぶつけ、その上で「心当たりのある者は申し出ること!」と言い渡した、その後、本人が申し出たのです。個人的な諍いが発端であることも判明。しかし、運動靴は自分の小遣いで弁償するし、今後一切こんなことはしないから、親には伝えないでほしいと、ぽろぽろ涙を流しながら懇願するのです。

 その心意気に感じて、教頭先生に相談しました。ところが、言下に否定されてしまいました。全く教頭先生の指摘の通りです。当たり前です。

 お父さんは烈火のごとく怒り、すぐに本人を連れて被害者の自宅へお詫びに出向かれました。一件落着です。 ……しかし、本人と私とのその後は、今ひとつしっくりしないまま卒業の日を迎えてしまいました。

               

 吉田中学校は、地域的にも、保護者も生徒も、田舎のよさを持った穏やかで和やかな学校でした。ただ、生徒指導上、もう一つ苦い思い出があります。

 2年目、生徒指導主事の役職にありました。そんな折、若い女先生の乗用車の屋根が凹んでいることが発覚。状況から、誰かが車の屋根に上ったことが予想されました。

 さっそく緊急生徒集会。心当たりはないか問いかけました。すると、女子生徒が2人、「車の周辺でうろうろし、ボンネットの上にも乗っていた生徒を目撃した」と申し出たのです。 ⇒すぐに該当生徒(1年男子)を呼び出して問いつめました。ところが、涙を流しながらすべてを否定するのです。 ……とうとう根負け、面談を終えました。

 ところが、その翌日、違う女子生徒(今度は1人)が、車の屋根に上っている生徒を目撃したとのこと。前日の生徒とは違う、やはり1年男子生徒でした。呼び出して尋ねると、今度はあっさりと認めたのです。あとは、たんたんとやるべき手順に沿って事を進めました。

 問題は、前日の生徒です。たいへんなことをしました。むろん、すぐに本人に平謝りに謝りました。保護者宅にも伺ってお詫びをしました。 ……しかし、心に傷を負わせた事実は厳然として残りました。罪なことをしてしまいました。今でも「汚点」として残ったままです、……。

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不登校生徒と
初めての出会い


 「(私が)吉田中に欲しかったのは、部活動(バレー部)のためではない」とは、校長先生の言葉でした。が、着任早々、バレー部保護者から「待っちょったけぇ〜ねぇ〜」と出雲弁。Y教育長さんも、心から歓待してくださいました。部活動をする上で、希望があれば何なりと遠慮なく申し出るようにとのことでもありました。体育館内の改装工事も、補正予算でやってくださいました。

 またしても、やっぱりバレー人生の続編スタートです。

 体育館に行ってみると、申し訳ないけどそうとうショックを受けました。まずは、基本の(対人)パスが全然続かないのです。ただ、瞳が実に素直です。私の言葉を聞く表情も、実に好意的。 ……初対面の日から、徐々に気持ちが高まっていく私がいました。

 3月31日まで前任校(頓原中)で、バレー部をガンガン鍛えていた私です。その2日〜3日後には、着任式を待たずに服を着替えて体育館へと足を運んでいました。 ……すると、私服の生徒が、外から練習をうかがっているのに気がつきました。

 細かいことは記憶の彼方ですが、個人的に話をしてみると「バレー部員だけど、練習はずっと出ていない」、「自分はバレーはへたくそ」とのこと。あとから知ったのですが、いわゆる「不登校」の3年生(=2年生後半はほとんど登校していなかった)だったのです。教員生活初めて出会った不登校生徒でした。

 そんないきさつは知らない、不登校の知識もない私です。その場で翌日から部活動に出てきて、マネージャー的な仕事をしてくれるよう頼みました。新入生が11名も入部してからは、その世話を中心に部活動に参加してくれました。 ……私の記憶では、3年生時代の欠席は(病気以外は)なかったと思います。まさにタイミングです。知らない怖さです。

 知らないといえば、新入部員11名の中に一人、夏休みになってから部活動に出てこない、無気力傾向の生徒がいました。不登校の知識がない私です。毎日しつこく迎えに行きました。まだ布団の中にいることもありました。嫌がる生徒を、強引に連れ出した日もあります。 ……保護者の後押しもありました。結果、とうとう私のしつこさに負けて、夏休み後半は自主的に遅刻せずに出てくるようになりました。

 未だに「不登校」の生徒への対応については、よく分かっていない私です。しかし、しつこさと熱意、タイミングは必要ではないかと、体験的に感じています。上記2名は、無知故の棚からぼた餅です。

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負けて悔いなし


 話題はバレー部に戻って、…………初日から張り切って、機関銃のようなレシーブ練習をしました。すると、全員が腕(ボールが当たる箇所)に赤い斑点が出来ました。初心者は経験する生理現象です。しかし、中には真っ赤に腫れ上がる生徒も3〜4人! こういう経験はなかったので、さすがにうろたえました。

 こんな状態ですから、練習試合に出かけると完敗。それも、相手チームに申し訳ないような「自滅パターン」ばかりです。教育長さんにお願いして、毎週日曜日、スクールバスを用立ててもらいました。練習試合に出かけるためです。

 しかし、毎度毎度、あまりに無惨な試合ばかりなので、遠征をやめた日曜日もありました。あとで保護者から聞いた内容ですが、「先生の期待に沿えなくて申し訳ない」と親に嘆く生徒もいたようです。

 そこが、バレー部との出会い、阿須那中初年度と違うところです。部員は、強くなりたくて前向きだったのです。苦しく厳しい練習に音を上げることもなかったのです。弱いながらもがんばり甲斐はありました。

 そして迎えた「郡大会」、予選リーグ戦で(前任校)頓原中とも対戦しました。チーム力は、いかんともしがたいものがありました。しかし、それまでの練習成果を遺憾なく発揮した、ファインプレーの続出する、それはそれは中味のある立派な試合でした。

 予選リーグ戦で2戦2敗、決勝トーナメントには駒を進めることは出来ませんでした。でも、それが決まった瞬間、3年生は涙があふれて、しばらくは声もかけられないほどでした。私の目にも涙が浮かんでいました。 ……「負けて悔いなし」、そんな言葉が素直に浮かんだ、3年生の引退試合でした。

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野球部・バレー部
アベック優勝

 新人チームは、私の担任学級の「いけいけ軍団」(7名)です。逆に私が引っ張られる勢いで、日々の練習がスタートしました。大事なのは「志」です。「ゆめ」(目標)を追って、苦しい練習に耐え抜く根性です。

 秋の郡新人大会では、宿敵(頓原中)には敗れましたが、久々の準優勝。出雲地区新人大会へも駒を進めることが出来ました。そして翌年6月、郡大会、予選リーグで頓原中を撃破! ⇒ところが、決勝戦で再び頓原中と対戦、惜敗。あと一歩で優勝を逃しました。 ……しかし、一年間の練習を振り返ってみるとき、自他共に十分に充実感・満足感できる、優勝に値する、立派な選手たちではありました。
   
 その年の秋、(私が着任したとき入学した生徒達が)ついに郡大会優勝! それも、他校を寄せ付けない圧倒的な大差での優勝でした。続く出雲地区新人大会も、ベスト4に入りました。


 翌年の秋(郡新人大会)は、野球部・バレー部アベック優勝! 吹奏楽部の先導で、町内を(歩いて)優勝パレードした光景は、今でも強く脳裏に焼き付いています。

 一度「優勝」を勝ち取ると、「伝統」とは底知れないパワーを秘めているものです。以後は、(私の転勤後も)吉田中は常に優勝を争う常連校となりました。

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バレー部主顧問を降りました

 菊池 寛 の短編小説で『形』があります。以前は、国語の教科書にも掲載されていた名作です。この小説に秘められているメッセージは、「ピグマリオン効果」にも通じるものがあります。

22.04.25(日) 『形』をどう話すか?

ピグマリオン効果
ピグマリオン効果


 私が吉田中に赴任したとき、生徒からも保護者からも「頓原中からバレーのすごい先生がやってきた」と歓迎されました。保護者会からの物心両面からのバックアップは、それはそれはもったいないほどでした。選手(生徒)の皆さんの、私の指導に対する姿勢も、絶大な信頼を寄せてくれていました。

 こうなると、まさに相乗効果で、思いがけないパワーが生まれるものです。そのパワーを私がもらったということです。 ……学校教育が成果を上げるか否か、重要な秘訣の一つがここにあります。

 たまたま、吉田中着任の年の新入部員が11人。170p超の長身選手
(後に県選抜選手安来高校キャプテン・エースアタッカー)始め、有能な選手が入部してきました。まさにグッドタイミングです。

 ちなみに、着任3年目の夏休み終了をもって、私のバレー部主顧問は(年度中途に)ピリオドを打ちました。その後、再び監督としてベンチに座ることは二度とありませんでした。 ……このいきさつについては、次に述べます。

                   

 それにしても、……主顧問を退いて改めて実感したこと。それは、私にとっていかに部活動が精神的肉体的な負担になっていたかということです。瓶の栓が抜けるように、一気に世の中が開けた気がしました。こんな教員世界があるのか!? と、雲に乗ったような気持ちになりました。

 部活動に精魂を打ち込んできた期間、まさにそれは(無償)ボランティアの世界です。当時は「当たり前のこと」と疑問に感じたことはなかったように思います。現在では、4時間を超える部活動指導に対しては、十分ではないにしても(多い教員、多い月で3万円〜4万円)手当が出ます。

 しかし思います。確かに手当はありませんでした。が、(苦しかった重荷を除けば)生徒達から十二分に、その対価をもらってきたということです。
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学級担任も外れ
部活動主顧問も降りて
そして

思いがけない話が……


 着任3年目(平成2年度、確か7月頃)、思いがけない話が飛び込んできました。「教員海外研修視察」(全県22名)のメンバーに選ばれたとの報です。2学期始まるとすぐから16日間、ヨーロッパ方面。ただし、お金も要るので「断ることも出来る」とのことです。

 出雲管内の中学校教員は、私一人。なぜ選ばれたかの説明はありませんでしたが、選んでくださったのは、出雲教育事務所とのことでした。ちなみに、旅行費用はおおむね60万円、うち40万円は補助が出る、すごい話です。

 手出し20万円、……当時としては安くない金額です。部活動のことも気になるし、しかし、せっかくのチャンスを逃すのか? というもったいない気持ちもありました。迷いに迷いました。

 部活動については、郡新人大会優勝はほぼ大丈夫との確証がありました。その上、何といっても「コーチ」として若い先生が、その前年から指導に入ってくださっていました。それはそれは熱心な先生です。「自分が主顧問になりたい」という希望を持っておられることも了解していました。 ……悩んだあげく、若手に主導権を委ねる「潮時」だと解釈することにしました。

 ちなみに、私が海外研修視察から戻ってきた2日後、郡新人大会がありました。このときは、私は観客席から応援しました。見事な優勝でした。

               

 なお、同じく吉田中3年目(平成2年度)、私は学級担任を外されました。新たなポジションは、教務主任。左右を見回してみたら、吉田中では年齢的には、教頭先生の次に位置していました。

 このときの喪失感は、(私の中では)想像を絶します。教員生活は終わったような虚無感にも襲われました。あさ、学級朝礼に教室に上がることもなくなりました。「班ノート」を読んだり書いたりもなくなりました。学級だよりの発行もストップしました。 ……私の心の拠り所はなくなりました。

 それでも、思い直して、新たなポジション(教務主任)で「やりがい」を模索し始めた年でもありました。

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中堅教員中央研修講座


 海外研修は、人生初めての海外旅行。なにせ部活動にどっぷりと浸かり、海外など夢のまた夢。思っても見なかった世界です。

 パスポートなるものを初めて入手し、ヨーロッパの旅に出かけました。学校訪問は、合計16日のうち正味4日(チェコスロバキア2日、西ドイツ2日)。あとは「観光」という、思いがけない「教員海外研修視察」ではありました。

 ちなみに訪問国は、チェコスロバキア ⇒西ドイツ ⇒オーストリア ⇒スイス ⇒フランス。ここでは趣旨がずれるので、詳細は紹介しませんが、日頃の教員どっぷりの生活を反省させられる、まさにカルチャーショックの旅ではありました。

 時差ボケ、チップ、バスタブなし、高い位置の男子トイレ便器、昼間からアルコール、肉料理だらけ(野菜不足)に体調不良、亡命の車列、スリ、自動販売機がない、……。そして、決定的に違う「学校」環境、……。いろんなことを知りました。いろんな出来事がありました。

 そして、一番の収穫は「日本が一番いい」、「日本食が一番おいしい」、「日本語が通じる世界はありがたい」(=英語はマスターすべきだった)ということです。

                   

 翌年(平成3年)、吉田中4年目、5月連休明けから42日間、今度は「
中堅教員中央研修講座」へ声がかかりました。

 海外研修にしても、この研修講座にしても、(教育事務所の)ご指名によるもの。いわゆる「一本釣り」です。校長先生によると、県教委から(優秀な教員だと)注目されている証拠、とのことでした。

 いや、確かに部活動では、それなりに成果を出していたかも知れません。しかし、その他については、とりたてて「優秀」というわけでもありません。強いて挙げれば、新規採用教員向けに「道徳の時間」の師範授業を引き受け、公開したことか?

 国語教育という面では、県国語教育研究会で二度(阿須那中時代・頓原中時代)、研究発表をしたという経験はあります。が、そのことが県教委(教育事務所)に伝わったとは思えません。取り立てて実績があったわけではありません。

 そういえば、自分の同世代は、教員採用が殊の外少なかったはず。そういう意味では、選ばれやすい環境にあったかも知れません。いずれにしても、この中央研修は、私の人生観を大きく変えました。

 田舎にいては会うことすらなかった、有名な講師の先生の講演を、てんこ盛りで聴くことが出来ました。法規演習では、法規の視点から学校教育を見るという、それまで全くなかった世界を知りました。文楽鑑賞、益子焼き・国立歴史博物館・偕楽園などの見学も、視野を広げていただきました。

 そして、大きかったのは県外の優秀な先生方と、腹を割って(教育を)語り合えたことです。人生観を映し出した「いい顔」をした先生がおられることを、この研修を通して知ったことも、収穫の一つです。

 なお、この42日の間、私の不在中の「国語の授業」は(臨時講師が見つからず)「空白」となりました。この後ろめたさは、今でも心の傷として残っています。

 また、当時は一本釣りの形で候補者が選定されていましたが、以後、(地教委の指摘により)公平性に欠けるという理由で、「立候補制」に変更になっています。 ……しかし、私は思います。本当に優秀な先生は、自ら立候補する(申し出る)ことはしないのではないかと、……。

 ちなみに、この折に学んだことは、『心に残った言葉』と題して、約120ページの冊子にして残しました。今でも、私の財産として一冊、手元に残っています。

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和暦 担任 主任等 備考 バレー部
郡総体 郡新人戦
1年目 昭和63年度 2年担任 生徒指導主事 予選落ち 2位(出雲地区 ?)
2年目 平成元年度 3年担任 生徒指導主事 2位(県総体不出場) 優勝(出雲地区3位)
3年目 平成2年度 なし 教務主任(兼;教頭代理) 海外研修 優勝(県総体ベスト8) 優勝(出雲地区 ?)
4年目 平成3年度 なし 教務主任 中央研修 優勝(県総体 ?  ) 優勝(出雲地区 ?)








教務主任

教頭代理


 吉田中学校3年目、思いがけない出来事が起こりました。6月17日、教頭先生が脳梗塞で倒れて緊急入院。以後、奇跡的に快復してリハビリに入られました。しかし、勤務は当面無理とのことで「大きな穴」が開いたのです。

 教務主任だった私は、急遽「教頭代理」も兼任することになりました。それからの生活は、まさに怒濤のような一日一日を過ごすこととなりました。

 当時は、キャノンのワープロを愛用していました。2台購入する贅沢は出来ません。箱型テレビのような機械を、来る日も来る日も、えっこらえっこら車に積んでは往復する毎日が続きました。膨大な文書を作成し続けました。

 さすがに教頭兼任は荷が重たい。その願いを受け入れてもらって、2学期からは若い「講師」の先生が、私の国語の授業(の一部)を担うという名目で採用となりました。ちょうど9月中旬〜10月初旬、「教員海外研修視察」に出ることもあって、救われました。

 ただ、16日間「穴」を空けてしまった後ろめたさは、今でも申し訳ない思いでいっぱいです。帰国後は、講師の先生には1学年を担当してもらい、一気に時間的余裕が生まれるはずでした。ありがたい措置ではありました。

 ところが、……実際には「初任者指導」のような状況が生じてしまいました。指導計画の相談、学習指導案の点検、参観授業など、別の意味で負担が増えてしまいました。が、なかなか人間的に優れた女性で、生徒には幸せでした。(蛇足ですが、このすてきな女性は、頓原中時代の教え子と結婚。)

 今にして思えば、数年前に他界された、(海外研修を積極的に容認してくださった)当時の校長先生は、実に太っ腹だった、寛容性があったと言えます。感謝の気持ちでいっぱいです。

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上=教職員旅行(ディズニーランド)
下=昼休み(教員談話室にて……)








青天の霹靂(へきれき


 吉田中4年目、2月初旬、校長先生から思いがけない「異動」を伝えられました。前年12月に「異動調書」を提出した際には、あと1年間吉田中に勤務したら、(赤来中の国語の先生が転勤となるので)赤来中に戻れると、校長先生からお墨付きをもらっていました。その矢先の出来事です。

 提示された異動先は、出雲教育事務所。「今なら断ることも出来る」とのことでもありました。悩みました、迷いました。まずは、「出雲教育事務所」の立ち位置、「指導主事」の存在意義も分かってはいませんでした。

 たまたま、当時の校長先生が(吉田中着任前は)「出雲教育事務所;指導主事」でした。メリット・デメリット、苦労話も聞きました。 ……今や吉田中での位置づけは、教務主任。「学校を動かしている」という存在感はあったにせよ、今ひとつ教員としての充実感・達成感を見出だせないでいる時期でもありました。

 この際、別世界を体験することも悪くない。ご指名があったということは光栄なこと。 ……運命を素直に受け入れることにし、翌日には気持ちを校長先生に伝えました。また一つ、人生の歯車が回った瞬間です。

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