教員生活を振り返って
(7)
B 頓原中学校

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23.2.13(日)


最初の部屋へもどる

30歳代
一番脂ののりきった時期に勤務したのが
頓原中学校です。

勤務歴
赴任順 着任年度 着任時
年齢
勤務校等 職名 在職
年数
自宅からの
距離(Km)
1 昭和 49 23 大原郡 大東町立大東中学校 教諭 3 58
2 52 26 邑智郡 羽須美村立阿須那中学校 教諭 4 26
3 56 30 飯石郡 頓原町立頓原中学校 教諭 7 10
4 63 37 飯石郡 吉田村立吉田中学校 教諭 4 24
5 平成 4 41 出雲市 出雲教育事務所 指導主事 4 56
6 8 45 飯石郡 赤来町立赤来中学校 教頭 2 1
7 10 47 邑智郡 邑智町立君谷小学校 校長 4 30
8 14 51 飯石郡 赤来町立小田小学校 校長 3 3
9 17 55 飯石郡 飯南町立赤来中学校 校長 6 1




予想だにしなかった異動地


 桃源郷のような小規模校「阿須那中学校」から、あえて転勤希望を抱いた一番の理由は、「こんな居心地のいい学校に、これ以上いては自分がだめになる、成長しない」という危機感です。担任した3年生を送り出す、というタイミングも、その気持ちを後押ししました。

 希望地は、念頭にバスケットがあったことと、ある程度大きい学校でもまれたいという気持ちがあって、300人以上の規模、宍道中・玉湯中、もしくは、木次中・加茂中・三刀屋中を(校長先生に)伝えました。

 途中(たぶん2月上旬)、校長室に呼ばれて、「希望する所が難しい場合は、阿須那中にもう一年残る気持ちはないか?」と聞かれました。私は気持ちを固めていたので、転出を重ねて伝えました。 ……同時に「希望が叶わないということか?」と、不安感が大きく広がりました。

 そして、ふたを開けてみたら、思いがけない異動。我が家から10Kmと近距離にある、100名規模の小規模、頓原中学校! ⇒全く予想だにしていなかった学校だった(バスケット部もない)ので、驚きとともに落胆の異動となりました、……。

               

 生まれ故郷にほど近い隣町、方言もほとんど一緒です。「ふるさと」に戻ったような面はゆさ、嬉しさを抱えながら、しかしながら一方では、希望しなかった規模の中学校、……という失望感も少し抱いて、3月下旬某日、町教委と頓原中学校を訪問しました。

 頓原中は、旧頓原中学校と志々中学校が統合。統合初年度を迎えようとしていました。校舎も体育館もモダンで立派な建物でした。その体育館では、女子バレー部の練習する声が、賑やかに漏れ聞こえていました。

 校長先生との会話の中で分かったのは、私が女子バレー部顧問として迎えられたということです。いわば、本人の意向とは無関係の引っこ抜きです。

 その発端は、前年秋、旧頓原中学校へ練習試合に来たこと。旧頓原中、志々中、阿須那中の3校で、一日中練習試合をしました。その結果の詳細は忘れましたが、頓原中(=出雲地区新人大会3位)がぬきんでていました。たぶん、阿須那中は1勝も出来なかったと思います。飯石郡2位の志々中には全勝したはずです。

 その折に、見学しておられた保護者の目に、私の姿が留まったとのこと。頓原中(宍道中へ)、志々中(赤来中へ)のバレー部顧問が異動(転出)という環境にあって、(保護者の要望が発端で)私に白羽の矢が当たったとのこと、……。これが、(勝つことを期待され)重荷を背負って歩む7年間の始まりとなりました。

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宿命のバレー部顧問


 その後の7年間、国語の教師というよりは、バレー部の監督と言った方がふさわしいような、怒濤のような教員生活を送りました。地域的には山間僻地でしたが、スクールバスが1台、ほとんどバレー部専属。毎週のように練習試合に出かけました。

 この間、郡大会はすべて優勝。しかも、他を寄せ付けない点差での優勝が大半でした。予選から決勝まで、取られた合計点数がたった4点という大会もありました。

 一方では、当時としては画期的な試合方式を取り入れた「近隣中学校女子バレーボール大会」の新設(下記「勝っておごらず、負けて悔やまず」にいきさつを記載)しました。その一方で、公式大会(予選リーグ戦で)2セット目、2軍チームを出したのがきっかけで、大番狂わせ。『形』(菊池 寛)そのもの。まわりから大顰蹙を買った事件(=最終的には決勝トーナメントを勝ち上がって優勝)もありました。

 21.04.12(日) 勝っておごらず、負けて悔やまず。


 県大会も出雲地区新人大会も、最高は3位に止まりましたが、(スポ小バレーがない環境にあって)ベスト8にはだいたい入る成績を残し続けました。

 この間、県大会優勝のチャンスを2度逃しています。一回目は、初年度。なにせ、郡新人大会1位と2位の選手が寄り集まっています。新聞の予想欄にも優勝候補の一角に名前が書かれました。実際、練習試合では互角のチームが2チーム。あとは優勢という実績をひっさげて県大会へ乗り込みました。ところが、苦杯を喫したのは、思いがけず(練習試合では全勝していた)河南中。あの(身長170センチ以上;俳優)江角マキコさんがエースアタッカー! この人と対角の長身アタッカー2人に、してやられました。

 もう一回は、頓原中7年目の県大会。この年は、たまたま毎年上位の常連校、八束郡のレベルが低調。佐田中と頓原中と(確か松江二中)が優勝候補として名前が挙がっていました。そして、準決勝で宿敵佐田中と対戦。フルセット、14−11でマッチポイントを迎えました。そして、相手チームはサーブレシーブを失敗。やった! ……しかし、サーバー以外の選手がラインを踏んでいたとのこと。これが発端で、ジュースに突入。もつれにもつれて、とうとう「19−21」で惜敗しました。(⇒優勝は佐田中)

  


               

 こう振り返ると、まずまず成果が上がっているとは言えます。が、特に私が監督のセンスがあるとは思えません。スクールバスの関係で朝練習は禁止、雪の多い冬期間の練習時間はたった30分、近隣に強敵がいないという山間部、……などなど、不利な環境にもありました。

 その中で、これは自慢出来るかも? ということはいくつかあります。

@ 専属スクールバス
 毎週、練習試合に出かけることが出来ました。勉強でもそうですが、試験があればそれが励みで人は頑張れる習性があります。毎週日曜日には練習試合が組んであります。

 4日後には(前回負け越した)東出雲中に出かける、という意識がある中での今日の練習と、今度の日曜日は休部(またはふつう練習)という中での練習とでは、おのずと力の入れようが違うものです。 ……これは大きかった。

A 生徒が前向き
 「頓原中バレー部は強い」という意識が、新入生にはありました。おおむねスポーツに自信がある生徒は、こぞって入部してきました。もっとも小規模校ですから、学年4人という年もありました。

 しかし、運動が得意の上に、生徒の気風がまじめでひたむき。冬季練習(平日)はボールは持てません。30分間のトレーニングのみです。夏休み中、3時間の練習のうち1時間はトレーニングです。しかも、そのメニューは半端ではありません。

 ……私も試しに、(基本的に2人ペアで実施)生徒と同じメニューをこなそうとしました。ところが、(夏休み練習で)3セットのうち1セットを終えたところで酸欠。吐き気がして宿直室へ直行。しばらくのびていました。(生徒には、用があると伝えて体育館を出ました。) ⇒この後は、生徒の姿に尊敬の念を抱き続けました。

 当時の頓原中バレー部は、「体力トレーニングでは県bP」という自負があります。

B データバレー
 練習試合の度に、控えの選手には記録業務があります。サーブ・サーブレシーブ、アタック、ブロックについて、個人記録を取らせました。帰校後は、約1時間かけて集計。翌日にはデータ一覧を配布です。 ⇒この結果を見れば、一人一人の成績が一目瞭然。今日の練習に打ち込ませるには、実に効果的な方法だと、今でも思っています。

                

 とにもかくにも、部活動をめぐっては怒濤のような7年間でした。そして問題は自己評価。部活動で打ち込む自分の姿は、抜け出したいくらい自分自身で嫌いでした。

 まだ小学校前の長男が、母に連れられて放課後練習を見に来たことがあります。そして、帰宅後の第一声です。「おとうさん、お姉ちゃん達が一生懸命頑張っとるのに、どうして怒るん?!」。 ……いや、怒るというより、張り切っていたんですが、傍目にはそう見えたということです。この言葉が、すべてを物語っています。

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国語は受験学力


 統合当初、2年生だけは2学級でした。あとはすべて1学級。ただし、当時の学級定員は45人。私の学級担任は、初年度が3年生で26人(=丙午生まれ)。あとは3年間ずつ持ち上がりでしたが、この間(生徒の出入りがあって)42人〜45人。 ……今にして思えば、すし詰め教室でした。

 この間、国語の教員は私一人。阿須那中に引き続き、まさに独壇場です。年間指導計画の組み替え、教材の差し替え、授業の濃淡の付け方、授業方法(学習指導過程)など、存分にやらしてもらいました。

 さまざまな授業パターンを手に入れていた30歳でしたが、さらに新しい学習指導法の開発にチャレンジし続けました。その心(キーワード)は、「楽しく力がつく授業」。どちらが欠けても、授業方法としては失敗です。

 その中にあって、いちばん念頭にあったのが、国語教育の立ち位置(国語の授業で目指すもの)です。当然、教育基本法がベースにあります。知・徳・体の調和的発達です。

【教育基本法】

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
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 さらに、「国語科」の目標は、当然心してかからねばなりません。しかし、こちらは総花的というか、当たり前の認識というか、……。つまりは、読む・書く・聞く・話す・話し合う、それぞれの能力を底上げすることです。


【中学校学習指導要領 第1節 国語第1 目標】

 国語を適切に表現正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにし,国語に対する認識を深め国語を尊重する態度を育てる。

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 そうは言っても、正直なところは、受験学力を高めることが一番の課題であり、関心事でもありました。当時は雲南三郡、中学校11校で同じ業者テスト(統一テストと呼んでいました)を、1・2年生が年3回、3年生が7回行っていました。その度に、業者から学校別の成績が、ガラス張りになって届けられていました。頓原中の国語は、私一人が担っています。比較するな、意識するなという方が無理です。

 総力を結集して、受験学力の底上げに腐心しました。

 おそらくは、受験予備校が行っている「国語問題解法のコツ」は実効性、即効性があります。ただ、これは受験テクニックが高まったのであって、決して「読解力」が向上したとは言えません。

 たとえば、島根県公立高校入試ですが、過去問題10年間を(3年2学期後半から)計画的に、私は生徒に実施しました。実施後は1時間かけて「解法」の解説をしました。 ⇒すると、例外なく回数を重ねるとともに点数も上がります。ちょっとしたコツ(留意事項)と慣れです。

 クラス平均で言うと、(一般的には)第1回目が45点前後だったものが、第10回目は65点〜70点まで跳ね上がります。個人的に見ると、中位から上の生徒が伸びます。40人の集団とすると、90点以上が10人以上の年もありました。(逆に、読み書きに課題を抱えている生徒は伸び悩み。⇒そこにある文章が読めないことには、どうにもならないと言うことです。)

 ところで、統一テストの場合は、リハーサルテストは1回がせいぜいです。でも、やるとやらないでは全然違います。頓原中は学年によって良かったり悪かったりはありましたが、(勤務中の7年間は)おおむね中位〜上位をキープする学校でした。そして、問題の「国語」は、かなり満足出来る成果を上げていました。 ……ただし、(純粋に国語学力が高いと言うよりは)リハーサルテストのおかげ、という一面があったことは否めません。   
      
                         

                   

 そして、本物の国語力ですが、その力点を私は「読解力」に置いていました。教科書も説明的文章の場合は、「正確に読みとる」ことが主眼となっていました。「音声言語」が注目されたのは、平成元年度の学習指導要領改訂(実施は平成4年度から)です。


 19.08.27(月) 文章を読むとは@ : 文章がすらすらと読める
 19.09.09(日) 文章を読むとはA : 正しく「まとめ読み」ができる
 19.09.23(日) 文章を読むとはB : 豊かな「ひろげ読み」ができる

 21.08.16(日) 国語教育をめぐって(前編)
 21.08.23(日) 国語教育をめぐって(中編)
 21.09.13(日) 国語教育をめぐって(後編)
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 国語力を語る上でのキーワード、次第にはっきりとしてきたのは、@「読書」です。ここが、漢字力・語彙力・表現力を高め、読解力を底上げするとともに、教養を得るための原点です。もう一つは、(古典を中心とした)A名文暗唱です。 ……そういうことが、自分の中で固まっていった7年間でした。

 19.02.04(日) 朗読・暗誦などを取り入れた国語教育 (前半)
 
19.02.11(日) 朗読・暗誦などを取り入れた国語教育 (後半)

 この時期の教え子に聞くと、印象に残っているのは、「漢字テスト」、「古典暗唱」、「百人一首大会」が圧倒的です。本当は、「虫食いテスト」、「図式」、「聴解力テスト」、「一読総合法」、「課題解決学習」などにも力を入れていたのですが、……。

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「道徳の時間」


 前任校(阿須那中学校)時代の出来事です。その日に限ってということではなく、直前まで「道徳の時間」の構想が固まらず。ついつい、生徒の要望に応える形でリクレーション(ソフトボール)に変更しました。そのあとです、職員室に原子爆弾が落ちたのは!

 烈火のごとく雷を落としたのは、教頭先生。キーワードは、「道徳をなめとるんか!」。日頃はのどかな職員室が、一瞬のうちに凍り付きました。

 「道徳の時間」のとらえ方が、十分身に付いていなかったのです。疎かにしてきていたのです。知っておられたのです。その積み重ねがあってのソフトボールだから、許せなかったのです。

★ 「道徳の時間」と国語の文学作品を扱う授業との違いが、分かっていませんでした。やりにくくて仕方ありませんでした。生徒も混同していたと思います。

★ 「規則の遵守」、「家族愛」、「感謝と思いやり」、「奉仕の精神」など、生徒はその重要性をすでに知っています。いちいち「道徳の時間」を使ってまでやる必要があるのか? という疑問を抱いていました。

★ 道徳教育は、日頃の生活の中で十分出来るし、実生活の中でタイミングよく指導する方が、よっぽど成果が上がるのではないか? という考え方をしていました。

★ そもそも、たった一時間の「道徳の時間」で人は変われる(変容する)のか? という疑問もありました。


 要するに、「道徳の時間」の意義、位置づけが分かっていなかったのです。そして、そのまま異動を迎えました。運命の異動です。「道徳の時間」と直面せざるを得ない状況に追い込まれました。

 頓原中への異動が、平成56年4月。そして、翌年秋には「島根県教育研究大会」が頓原町・赤来町を会場に開催。私はK先生とともに「道徳の時間」を公開する(研究授業)こととなりました。

                   

 学校ぐるみで模索が始まりました。学校あげて「井上(治郎)道徳」研究のスタートです。研究会にも参加しました。図書もいっぱい読みました。 ⇒徐々に疑問点(★)が解決していきました。

 いちばんすっと心に入ったのは、「道徳の時間」は徳育の時間ではない。教師が(えらそうに)教える時間ではない、という概念です。これで吹っ切れました。自由発言方式というスタイルも、この概念から生まれました。


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 不完全ながらも、自分なりのスタイルを手に入れました。ぐんと楽になりました。その後、このことがきっかけで、2度にわたって初任者研修の「道徳の時間」の(こともあろうに)示範授業をさせられました。もっとも、振り返ってみれば、こういう逃げ場のない機会が、教員を育てると言えます。ありがたいことではありました。

 ちなみに、何ということ! 昭和60年頃から「道徳の時間」のスタイルが変わりました。いや、変えるよう上意下達がありました! 「井上道徳」の否定です。「瀬戸 真」道徳の誕生です。面食らいました。戸惑いました。反発心が沸きました。 ……せっかく「井上道徳」スタイルを手に入れて安心していたのに!

 いちばんのネックは、「価値の主体的自覚」の設定です。これは今でも基本的に反対です。まだ学校現場にいるときはよかった、無視すればいいのだから。

 ところが、平成4年度から指導主事として、「瀬戸道徳」を指導して歩く立場となったのです。学校現場でも、この「道徳の時間」後段(価値の主体的自覚の時間)で悩んでおられました。正直言って、私にとって苦しい4年間ではありました。

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古きよき時代


 すでに述べたように、学級担任は、3年⇒1年⇒2年⇒3年⇒1年⇒2年⇒3年と、欠けることなく、きれいに持ち上がり担任をさせてもらえました。校長先生には感謝の気持ちでいっぱいです。

 ただ、教員の経験を重ねれば、(生徒にとって)いい学級担任か? と問われれば、「はい」と言えない自分がいます。年齢を重ねるとともに、生徒との距離感を自覚せざるを得なかった、というのが実感です。 ……案外、教員駆け出しの頃が、生徒にとっては「いい先生」だったような気もします。

 昭和50年代後半、全国的に学校が荒れに荒れました。校内暴力が中学校の文化となりました。近隣(山間部)の中学校でさえ荒れました。が、頓原中学校は、この間ずっと平穏でした。部活動は、野球部・バレー部・吹奏楽部とも毎年成果を上げるし、成績も雲南地区ではおおむね上位を位置し続けました。 ……これは地域性もあると思いますが、今でも誇りに思っています。

 ふと思い出しましたが、当時は「不登校」という言葉も知らなかったし、そういう概念もありませんでした。実際「不登校」の生徒もいませんでした。いや、一人(Hくん)いたかも知れません。母子家庭の子でした。

 よく遅刻するのです。というより、学級朝礼までに登校していないのです。「不登校」を知らない時代です。学校から近かったので、すぐに駆けつけて、何度たたき起こして連れ出したことか、……。 ⇒しかし、その彼は、今や広島市で食堂の店長をしています。人生分からないものです。

 私にたたかれた(=体罰)という教え子(Tくん)がいます。全く記憶にないのですが、……。それでどうしたか尋ねると、「家に帰って親に訴えたら、『おまえが悪い!』といってまた叱られました。」とのこと。古きよき時代の話です。

                

 教員集団も、今にして思えば実にレベルが高かった。年齢構成もよかったし、指導力のある教員がそろっていたと思います。職員旅行も、この間毎年和やかに出かけました。3泊4日で、沖縄にまで行きました。7年間、教員集団に恵まれました。

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職員旅行






7年間
めいっぱい勤めました


 自分にとっては、プレッシャーの大きいバレー部顧問、存分に打ち込ませてもらった学級担任、国語の授業、……。脂ののりきった30歳代。今振り返ってみれば、教員冥利に尽きる7年間ではありました。

 そして、7年間ぎりぎりいっぱい勤務したとき、ふと心残りに思ったのは、ふるさと「赤来町」での勤務がないこと。ふるさとへの貢献が、40歳を目前にして皆無だったのです。

 しかも、そのふるさとの学校では、生徒指導をめぐって様々な問題が吹き出してもいました。一気に赤来中に勤めたい思いが募った、7年目後半です。たまたま赤来中の国語の先生が転勤という情報も入りました。が、……!

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