教員生活を振り返って
(6)
A 阿須那中学校

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23.2.6(日)


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きのうは
現任校(赤来中)で6回目
私にとって最後の「新入生説明会」がありました。
去年4月から
何事につけて
「最後の」という冠がつきまとっていましたが
この日の「最後の■■■」は
「あぁ この子達を赤来中で迎えることはないのか、……。」と
少し寂しい気持ちになりました。
退職までいよいよ秒読みです。

さて、今回取り上げるのは
2校目(教員生活4年目)
桃源郷のような地域にある
純朴な中学校です。

勤務歴
赴任順 着任年度 着任時
年齢
勤務校等 職名 在職
年数
1 昭和 49 23 大原郡 大東町立大東中学校 教諭 3
2 52 26 邑智郡 羽須美村立阿須那中学校 教諭 4
3 56 30 飯石郡 頓原町立頓原中学校 教諭 7
4 63 37 飯石郡 吉田村立吉田中学校 教諭 4
5 平成 4 41 (出雲市) 出雲教育事務所 指導主事 4
6 8 45 飯石郡 赤来町立赤来中学校 教頭 2
7 10 47 邑智郡 邑智町立君谷小学校 校長 4
8 14 51 飯石郡 赤来町立小田小学校 校長 3
9 17 55 飯石郡 飯南町立赤来中学校 校長 6




大規模校から小規模校へ


 初任校(大東中)では、学級担任が 2年3組 ⇒1年2組 ⇒2年5組 という流れでした。当然、3年生まで持ち上がって、教え子達を卒業させてから転勤したいのが人情というものです。

 ところが、校長先生から告げられたのは、「初任校勤務は3年が原則、4年目はへき地校へ異動しないといけない」とのこと。「希望を出せば叶えられることともあるが、希望を出さなかったら、どこへ行かされるか分からない」とも、……。まったく融通が利かない、(理不尽な)異動ルールです。

 ちなみに、あとから分かったことですが、他の公務員や一般会社と違って、「教員」の異動は、かなうかどうかは別として、本人の(次の赴任地の)希望を出すことになっています。どうして教員だけが、こんなに恵まれているのでしょうか? 今でも理由が分かりません。

 やむなく、かねてからの「バスケット部を担当したい」という願いを実現するため、邑智郡の瑞穂中・石見中・川本中を希望しました。 ⇒そして、「内示」では念願の瑞穂中とのこと。バスケット部が担当出来る保証はありませんが、一応願いの叶った異動 ………………のはずでした。

 ところが、「発表」段階では、思っても見なかった阿須那中学校! 避けたかった50人程度の小規模校です。むろんバスケット部はありません。これには、そうとうのショックを受けました。

 ちなみに、その後の私の異動については、希望が叶ったことは一度もありません。(管理職となってからは「上司一任」)

 へき地校勤務とはいえ、ほとんど平坦地のない、山に囲まれた平屋建ての木造校舎です。それまでが650名のパワフルな学校だっただけに、正直な気持ちは、寂しい異動となりました。(着任式の時、生徒の人数が一クラス程度に、唖然としたものです、……)

 3月末、引継ぎ(兼;異動前の挨拶)に出かけました。校舎を案内してくださったのは、同年齢のS先生。見覚えのある方でした。 ……何と、学生時代、島根大学硬式庭球部に所属。学校同士の定期戦もありましたから、これは偶然でした。一気に気持ちが楽になったことを思い出しました。

 学級担任は2年生(15名)を任せられました。人数が少ないのが少し残念な気持ちではありましたが、念願の学級担任が手に入りました。

 それはよかったのですが、問題は部活動。なんと……女子バレー部! を言い渡されました。

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バレーボールとの出会い


 2校目の勤務校では、ぜひバスケット部の顧問になりたい。そういう願いを抱いての異動でした。が、阿須那中学校にはバスケット部が無いどころか、異動された先生が「女子バレー部」だったから、その後をよろしくとのこと、……。異動先の学校には、男女ともバレー部と軟式庭球部(=ソフトテニス部)しかありませんでした。

 しかも、着任の4月新入生からは、男子は全員庭球部、女子は全員バレー部となっていました。生徒数が少ないことと、教員の(部活動)負担軽減が、その理由です。

 個人的には、球技の中ではバレーは苦手。せめてテニス部を持たせてもらえたら、まだ幸せなのに、……。そういう苦い思いで、新たな部活動顧問の生活が始まりました。パスを生徒に教えてもらうところからの、情けないスタートでした。

 ところが、その受け持った女子バレー部が、何とも恐ろしく弱いチーム。春先に、あまり強くないチームとの練習試合に出かけたところ、ことごとく負け。負けるどころか、1セットに5点も取れない。しかも、生徒は負けても別にショックを受ける様子もないのです。そして事件? が起きました。

 いつものように土曜日、体育館に足を運ぶと、活動開始の時刻が過ぎているのに、部員がいない。ネットも張っていない。やむなく一人でネット張りの作業を始めると、まもなく3年生部員がやってきて、「え〜〜っ、今日も先生は出られるんですか?」とのこと。なぜかとその理由を尋ねると、これまた驚きの回答。「先生が練習に来られると、部活動が楽しくありません」。3月までとあまりに違ったやり方に対して、やっと正直な気持ちを吐露してくれたのです。

 つまり、顧問の私には来てほしくない。自分たちで自由に楽しく部活動がやりたい。……こういうことのようです。私のショックは深い渕。そのショックを隠すように、何事もなかったように、私は靴を履き替えて校庭に出ました。そして、生徒だけで練習をしていたテニス部に混じって、一緒に汗をかきました。涙か汗か分からないような汗をかきました。その日、女子バレー部は3時過ぎには早々と練習を終え、わいわい楽しそうに帰宅していったことを、今でも覚えています。

 その後のバレー部の部活動は、出るには出ましたが、自分が汗びっしょりになって、部員を鍛えることはやめました。1年生の相手をするか、上級生の練習を見守るか、試合の笛を吹くか、……。全体として脇役かロボット役に徹しました。

 そして迎えた、2日間にわたる郡大会。初日は、4チームずつに分かれてのリーグ戦でした。むろん、3戦3敗。しかも、最高取った点数が1セット5点という、何ともむなしい敗戦でした。ショックだったのは、最終戦最後の笛を聞いた後です。ベンチに帰るやいなやレギュラーたちは、「やったー、おわったぁー」と笑顔で、水を飲みに水道に走っていきました。(当時の水分補給は水道でした。)

 こういう部活動がいけないとは言い切れません。3年生部員は心の優しい生徒ばかりでしたし、部活動を楽しんでもいました。それなりに満足して部活動を終わったのです、……。でも、自分自身の中学校時代の部活動を思うとき、あまりに隔世の感があります。「これは違う」、「こんなものじゃない」、そういう反発心が一気にわき上がりました。

 勝つことを目指せば、とうぜん練習はつらくて苦しくなります。しかし、(部員が一丸となって)それを克服する日々の積み重ねの中から、多くのことを学びます。落胆と感激も味わいます。優しさに裏付けられた「たくましさ」を徐々に培っていきます。

 たまたま新人チームの主力(2年生)は、私の担任クラス。新しいチームで出発するに当たり、一人一人の部員の気持ちを聞きました。私の思いや願いも伝えました。すると、「練習が苦しくてもいい、勝ちたい」との思いで一致。これが、私の苦しくつらい部活動顧問としての教員生活のスタートとなりました。(そこまでしなかったら、自分の首を絞めることもなかったのに、……。)

 バレー指導について全くの素人だった私は、本を買いあさる、人に聞きまくる、強いチームの練習を見に行く、テレビバレー教室は録画して何度も観るなど、出来うる限りの勉強をしました。練習後は、私の体重が2Kgも減るような練習を重ねました。選手も、必死になって練習に励みました。

 そして2年目の郡大会は8チーム中4位、その年の新人大会では3位。翌年6月の郡大会も3位。たまたま1位のチーム(川本中)が石見地区優勝校だったので、幸運にも県大会(隠岐大会)に出場しました。しかも1回戦勝ちました。みんなで隠岐観光をしました。邑智郡大会で勝ち残ったからこそ味わえる貴重な体験です。

 さらに、翌年度は郡大会初優勝。当時としてはほとんど例を見ない、各種(A・B・C)クイックを武器に、石見地区でも優勝をねらえる位置に付けるほどになりました。その代わり、私の私生活はバレーづけ。日曜、祭日を問わず部活動。当時レベルの高かった、大田市内の中学校に幾度となく足を運び、挑戦し続けました、……。

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桃源郷


 阿須那という地域性そのものが、実に純朴で温かい気風に満ち満ちていました。保護者も生徒も、感動的なほどに「いい人」だらけなのです。

 食料品店の2階に下宿しました。阿須那中学校と隣接する「羽須美高校」の先生2人も同宿でした。ここの小父さんと小母さんさんが、家族以上に親身に関わってくださって、居心地のいい「ゆりかご」のような住まいでした。

 そんな人柄ですから、近くに住む男子生徒が
(夜中にーー本当はいけなかったかも?)よく訪ねてきました。勉強も、まだ若かったので、英語も数学も何でもござれ。家庭教師か学習塾のような一年目でした。

 ちなみに、一年目が終わろうとする3月末、結婚したため住宅に移りました。新築の「田本住宅」(5軒長屋)でした。 ……現金な? ものです、ぱったりと生徒がやってこなくなりました。若くて独身であることは、ある意味で「教師の武器?」であることを知りました。

 それにしても、阿須那中学校での4年間は、まさに桃源郷。ぬるま湯に浸かったような教員生活ではありました。

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保健体育の教員として


 小規模校ですから、教員数もそれに準じて少ないのは致し方ありません。こういう時のために、つらい思いをして取得した「保健体育」の免許状です。4年間、体育主任を務めるとともに、全学年の体育を担当しました。座学主体の国語担当にあって、いい気分転換となりました。

 とは言っても、「副免」には違いありません。本格的な「体育」の授業が出来たわけではありません。「保健」の授業も、教師用指導書頼みでしかありません。生徒の皆さんには、申し訳ありませんでした。

 とりわけ体育の授業は、教えるというよりは、ともに楽しむといったスタンス。特に、バスケットボール・バレーボール・サッカー・陸上競技・ソフトボールなどは、生徒に混じって存分に楽しませていただきました。問題の苦手な「体操競技」(マット・跳び箱・鉄棒)ですが、思いがけず前任校(大東中)時代の遺産。多少なりともお手本
(?) を示すことが出来ました。とは言っても、け上がり、腕立て前方転回、空中回転程度ですが、……。

 プール管理には苦労しました。ちょっと油断すると水が緑色になります。こうなったら、プールの水を全部入れ替えるしか手だてがありません。私のミスで失敗もありました。 ……救いは、生徒の皆さんが(新米教員に)温かい心で関わってくれたことです。

 冬季間(確か2週間、毎日放課後)行われる「寒稽古」(剣道)は悲惨でした。高校時代(選択)と大学時代の授業で「柔道」の基礎は習っていました。が、剣道は全くのど素人です。

 幸い、外部指導者に来ていただいたことと、全教員が参加する行事でしたので、私(体育主任)は日陰の存在として参加出来ました。その代わり、たたかれ役は徹底的にさせられました。

 ⇒ 極寒の体育館で、「小手」「ドウ」は悲惨です。痛いを通り越して、「しびれ」ます。5〜6人の班編制、ずらりと並んだ生徒が、次から次からたたき込んできます。とりわけ「ドウ」は、防具を外れて脇の下に竹刀が来ることがあります。 ……まさに寒稽古は、(私を含めて)若手男子教員修行の場そのものでした。

 ちなみに、県教委主催の「若手(保健体育)教員研修会 3日間」が、毎年実施されていました。お互いに得意種目で講師役を務め、実践的な研修をする企画です。毎年あって、毎年強制参加でした。

 私の場合、得意種目がありません。「バスケットボールが専門の●▲です。」という自己紹介にあって、いつも私は「専門の種目がないからすだです。」と言うしかありませんでした。その上、どの種目を取ってみても、いつも私は劣等生。惨めな研修会ではありました。

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国語の授業


 大規模校(国語教員5人)が初任校であったことは、ほんとうに幸せでした。駆け出しの学校で、さまざまな(国語教育に関する)考え方を実践的に学ぶことが出来たからです。凝り固まることなく、最初の3年間を過ごした意味は大きいと思います。

 そういう中にあって、大東中学校での3年間、私なりに「国語科とは?」、「国語科教育の目指すものは?」、「国語力をどうやって高めるか?」、「楽しく、しかも力を付ける授業のありかたは?」を模索し続け、ため込んできていました。試したいこともたくさんありました。阿須那中学校では、国語の教員は自分一人です。思い切った発想も実践も可能な環境が与えられました。

 いろいろある中で、次の3つはすぐに始めました。

(1)漢字問題集に基づいて、徹底的に漢字書取をする。

 現実的な問題として、そこにある文章が読めないことには読解力は語れません。すべての前提です。漢字をマスターしているということは、(語彙の大半が漢語という日本語にあって)「語彙」もマスターしているということです。

 その際、問題集を使いました。そのわけは、問題集に出てくる漢字の姿。基本的にいちばん特徴的な使われ方として登場します。そこが教科書とは違います。

 そしてまた、生徒の立場に立てば、努力の成果が上がる(=頑張り甲斐がある)「小テスト」を準備してやる必要があります。15問中10問出すというスタイルで、毎時間(授業初めの5分間を使って)実施しました。 ⇒中間・期末テストで20点の枠を設けて出題。 ⇒長期休み明けには、全校一斉「漢字100題テスト」。

 大半の生徒が、小テストでは80点以上をとり続けてくれました。ただ、中間・期末テスト、休み明け100題テストと進むにつれて、差がどうしても出てしまいます。

 その原因は早計には断言出来ません。が、経験的に言えることは、@持って生まれた(あるいは鍛えられた)記憶力。そして、A日頃の読書量です。

 Aについては、(忘れがちな生徒は)小学校5年生の漢字テストで、例えば、「営む」「有」「授ける」「熱」「根」「転」「復」潔い」「悪」「温」などの出題があった場合、日常会話では出てこない単語(熟語)など、せっかく覚えてもすぐに忘れてしまいます。

 その点、日頃から豊富な読書をしている生徒は、どこかで何度か目に触れている単語(漢字)であれば、マスターも楽なら、テスト後も忘れにくいという特長が認められます。

 根本的には、日頃からの読書、読書習慣の形成の重要性を認識する、2校目の勤務でした。

 



(2)古典分野は、各学期に分散。すべての作品を暗唱させる。

 古典に親しむ、古典の学力をごっそり上げる、いちばん優れた方法は、名文暗唱です。自分自身の体験から、確信めいたものがありました。ただ、古典の作品は(教科書では)3学期初めに配され、一ヶ月近く延々と続きます。とても全文暗唱に耐えられません。

 そこで、一人で担当する国語です。年間指導計画を組み替えて、古典作品は各学期に配しました。 ⇒何といっても、暗唱は達成感があります。むろん、学力向上間違いなしです。

 19.02.04(日) 朗読・暗誦などを取り入れた国語教育 (前半)
 19.02.11(日) 朗読・暗誦などを取り入れた国語教育 (後半)


(3)一読総合法的な指導を導入する。


 「
☆☆☆的な」というのは、その通りではなく、自分流に変形させて行ったからです。この「一読総合法」を導入した一番の理由は、遅れがちな生徒が授業に参加しやすくするためです。

 大東中時代、先輩の先生の中には、例えば文学作品を扱う場合、全文通読後すぐに「学習課題づくり」を一斉指導で行っておられました。実にダイナミックで、レベルの高い授業でした。課題づくり(課題を絞っていく過程)で、すでに課題も解決したようなものです。そんなスタイルの授業です。すごいと感動しました。

 ただ、気になったのは、一部の読解力の優れた生徒だけが活躍しがちということです。私も挑戦しましたが、その問題点克服はとうとうなりませんでした。

 そして、別の問題点が2つあります。

 一つは、まずそこにある文章が読めない、意味が分からない生徒がいるのに、一気に長文の全文通読。漢字や意味調べは、多くが家庭学習に押し込められていたことです。

 そこで私は、「虫食い」という方法を編み出しました。(=案外、何かの本でヒントを得た可能性があります。)

 僕らのチームが勝ったのだ。一斉に■■が上がった。

 この■■に入る語句を考えさせる過程を通して、文脈に着目させたり、文脈をたどる姿勢を培ったりする方法です。しかも、1時間の授業で扱う文章の長さを短く区切りました。したがって、基本的に教科書は私が預かり、プリント学習です。

 もう一つの問題点は、文学作品の場合、先がどうなるか分からないから、わくわくしながら読みます。また、先が分からないからこそ、文学を味わう醍醐味が生じるのです。

 例えば『走れメロス』の場合、@最終的にメロスが間に合って助かることが分かっていて、倒れて動けなくなった場面を問題にするのか? A「たどり着けないかも知れない」という疑惑の中で問題にするのか?(話し合うのか?) ……@とAでは大違いです。

 こうして、最初から少しずつ、みんなで手をつなぎ合いながら、少しずつ読み進める方法を採用しました。一人でも多くの生徒が授業に主体的に参加するよう促しました。

 阿須那中学校時代は、国語の授業に独自性を磨こうと、必死に模索を重ねていた時代でもあります。


 19.07.01(日) 「一読総合法」をめぐって

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「読書ノート」との出会い


 島根県学校図書館協議会主催で実施されている「読書ノート」と出会いました。邑智郡は、この「読書ノート」において島根県内の先進地でもありました。

 読んだら書く、書いたら読む。 ……この積み重ねが、せっかくの読書をより確かなものにしていく。学力もごっそり引き上げる。

 このことについては、『君たちはどう読んでいるか』(岩崎弥太郎)で学んでいました。ただ、実践のきっかけがつかめないでいました。そこへ現れたのが「読書ノート」です。

 17.02.27(日) 「読書ノート」を突破口に

 しかし、全校生徒が少ないとはいえ、国語教員の私が全校生徒をカバーすることは、かなりハードなことでした。 ⇒結局は、強制しない方法を採用。時々全員提出はあっても、基本的には少数の積極的な生徒の面倒を見てやることにしました。その中で、Mさんのことは強く印象に残っています。


 Mさんは入学当時、国語の成績は10段階で3でした。この子はしかし、精力的に嬉々として「読書ノート」を提出し続けました。そして3年生になると、国語の成績は7になりました。英語も3から7に跳ね上がりました。

 引っ込み思案だったこの子が、図書館に関わる委員会の委員長になり、人前で堂々とスピーチ出来るようにもなりました。生活全般にわたって自信に満ちた言動ができるようにもなりました。

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 『君たちはどう読んでいるか』に紹介されている、松江四中の山本博行くんの実話の、小さな再来と出会いました。

 ただ、以後の勤務校3校(頓原中⇒吉田中⇒
教頭として務めた赤来中)では、「読書ノート」が(飯石郡として)行われていませんでした。部活動にあくせくして、いっぱいいっぱいだった私は、あえて「読書ノート」は避けざるを得ませんでした。 ……ただし、それに替わる小さな実践は行いました。

 校長として飯石郡に戻った平成14年、郡内の指導的立場になったのを機会に、郡内に「読書ノート」を提唱。コンクールも実施しました。3年目には約半数の学校(10校)から150冊以上が集まり、コンクールも順調に進みました。

 町村合併後、飯南町6校ではすべての小・中学校で、熱心な先生のもと「読書ノート」の地道な実践が行われています。


  「読書ノート」に関して、小田小(平成14年度〜16年度)の例では、特に2人の児童(1年生・2年生)が印象に残っています。

 夕食までは日課のようにして本を読んだり、読書ノートを書いたりして、一年間で20冊近いノート(ほぼ2週間で一冊)を書き上げました。2人とも、県読書ノートコンクールで最優秀賞を受賞しました。

 一年間で、(家庭において、)どれだけ本を読み、文章を書きためたことでしょうか! ⇒その成果は、「本を読むことが好き」「文章を書くことが好き」につながるとともに、全国標準学力調査の結果(2人とも国語は満点)にもはっきりと出ています。情緒の安定、「生きる力」にもつながっています。

 子ども達に家庭学習を促し、読み書き能力を向上させる方法はいくつかあると思います。が、この「読書ノート」の実践は、明らかに成果が上がる一例であることを示しています。

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学級担任として


 2年⇒3年⇒1年⇒3年 と、担任をさせていただきました。4年間で3つの学級集団と関わったわけですが、どの学級も穏やかで平和な暮らしをさせてもらいました。楽しい思い出ばかりが浮かんできます。感謝の気持ちでいっぱいです。

 特に最初の2年間のクラス15名とは、今でもほぼ全員と年賀状のやりとりをしています。同窓会も3年ごとにめぐってきます。誕生日の度に、阿須那特産「池月」、紅白のお酒を送ってくれる教え子もいます、……。

 なお、大東中学校で実践した、「班ノート」「学級だより」「(朝終礼時)ギターで歌う」は、よりグレードアップしながら続けました。

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家庭的な職員室


 小規模校のよさはいろいろあります。その一つに、職員の人数が少ないので、家庭的な雰囲気になるということです。楽しい語らいや思い出が、次から次から浮かんできます。

 みんなで出かけた職員旅行は、4年間(4回)とも強く印象に残っています。囲碁を始めたのも、阿須那中学校職員室です。冬季間、部活動が終わってから、連日のように4人で楽しみました。時々、放課後になると近所の囲碁好きもやってこられました。おかげさまで、初心者から6級まで上達させてもらいました。今では、趣味は何ですか?と聞かれると、躊躇なく「囲碁」と答えます。

 生徒や保護者、地域が純朴で温かく包み込まれるような、童話の世界にでもいるような、穏やかで楽しい毎日でした。 ……ただ、勝負を争う部活動だけは、大きな負担となっていたことは否めません。ひょっとしてやりすぎました、反省です。

 この穏やかな学校と別れを考えたのは、皮肉にものどかすぎる学校環境です。ぬるま湯にどっぷりと浸かっていた私は、もう一度大規模校でもまれたい、鍛え直されたいという思いがふくらんでいきました。そして、4年目が終わる異動調査で、「転勤希望」と書きました、……。

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左下以外は職員旅行