教員生活を振り返って
(5)
@ 大東中学校

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23.1.30(日)


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初任校から振り返ることにします。
まずは私の教員生活の原点とも言える
大東中学校です。

勤務歴
赴任順 着任年度 着任時
年齢
勤務校等 職名 在職
年数
1 昭和 49 23 大原郡 大東町立大東中学校 教諭 3
2 52 26 邑智郡 羽須美村立阿須那中学校 教諭 4
3 56 30 飯石郡 頓原町立頓原中学校 教諭 7
4 63 37 飯石郡 吉田村立吉田中学校 教諭 4
5 平成 4 41 (出雲市) 出雲教育事務所 指導主事 4
6 8 45 飯石郡 赤来町立赤来中学校 教頭 2
7 10 47 邑智郡 邑智町立君谷小学校 校長 4
8 14 51 飯石郡 赤来町立小田小学校 校長 3
9 17 54 飯石郡 飯南町立赤来中学校 校長 6




1年目


 初任校は、誰しも教員としての原点がそこにはあると思います。私も日頃の教員生活をふと振り返るとき、初任校(大東中学校)3年間が彼方に浮かんできます。自分の今は、大東中学校につながっていると実感します。

 何と言っても、40年近い昔のことです。鮮明な記憶というよりは、霞がかかったその向こうに「セピア色」の映像が、ぼんやりと浮かび上がってきます。しかも、断片的で心許ない記憶がほとんどです。が、じっと意識を集中すると、さまざまな色合いに覆われながら喜怒哀楽を伴って、次々浮かび上がってきます。

 大東中学校は当時、1・2年生が5学級、3年生が6学級、全校生徒数約650名。教員数32名でした。私に託されたのは、2年3組。子どもっぽい男子生徒(分析的には、@やんちゃ軍団・Aまじめ集団・B少し斜め向きの集団の3グループ)、落ち着きと信頼感のある女子生徒、という構成でした。大学出たてということで、たぶん間違いのない集団を任されたと思います。

 やんちゃ軍団が教室を明るい雰囲気にし、行き過ぎるとしっかり者のお姉さん達がたしなめる、……。その後の学級集団づくりを振り返るとき、ポイントは女子生徒だという認識があります。女子生徒がしっかりしていて、心を通わせあっている学級集団は、まず大崩しません。復元力があります。

 遠足、修学旅行、そして、日々の生徒とのふれあい、……。毎日毎日が新鮮で、充実していて、楽しい思い出が、次から次から浮かんできます。Aのグループに請われて、夏休み中に三瓶と海岸でキャンプを張った(=これは校規違反かも?)思い出も、かなり鮮明に甦ってきます。

 廊下に取り付けられた時計に向かってジャンプ。その弾みで時計がコンクリの床に落ちて破壊するという出来事、ふと思い出しました。生徒に「届くか?」と言われて乗る自分も情けない。ガラスなど片づけて職員室に戻ると、(上記)@の生徒達が、職員室に正座させられ、事務主事の方に青筋立てて怒られていました。 ……「いや、壊したのは私です。」と打ち明けた瞬間、職員室の時間が止まりました。これまでの人生で「穴があったら入りたい事件」ベスト3に入ります。

 2年3組の教室は、離れ小島のような場所にありました。班ノートに、「きょうの国語の授業は楽しかったです。やっぱり音楽はいいですねぇ〜〜。」という内容の記述がありました。 ……何のことはない、教室の斜め隣が音楽室。暑い季節、窓を開け放つと音楽室の音響が、まともに聞こえる悲惨な教室でした。 ⇒だから、落ち着きのない学級集団になったかな? でも、愉快な教室だったから思い出がいっぱいです。

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大東鉱山事件


  大東鉱山事件が起きました。2年生すべてのクラスにまたがる、十数人が関わった出来事です。自分の担任クラスにも、(上記)Bの3〜4人が該当者でした。

 インターネットで「大東鉱山」を検索すると、写真入りで説明サイトが出てきます。昭和48年に閉山とのこと。そう、事件が起きたのは、翌年の秋です。発端は、不要物(美しい色に輝く半透明な石)の発覚です。当時は、当たり前のように「持ち物検査」(今は人権の観点からダメ)を抜き打ちでやっていました。

 島根県の山間部は希少金属のモリブデン鉱床がたくさんあり、特に大東町では採掘が盛んだった。
 大東鉱山は、昭和48年に閉山し以降、製陶事業に転業しているが、県道にはいまも「大東鉱山前」バス停留所が残っていて、その上の斜面には僅かにコンクリ造の建物や、鉱山軌道が残っていて当時の面影を見ることが出来る。
(www6.airnet.ne.jp/~mura/mine/chugoku/.../index.htmlより引用)

 生徒を尋問するのが上手な年配のK先生がおられました。その点、当時の(今もかも?)私は、さっぱり生徒から真実を聞き出す能力がありませんでした。 ⇒K先生の取り調べの結果、廃鉱になった大東鉱山の建物に忍び込み、中に置いてあった「きれいな石」を持ち出していることが判明。次々、芋蔓式に関わった生徒が十数人、……。

 当時の大東中学校は、生徒の気風は穏やかで素直で純朴、また逞しいリーダーが続々登場する、誇り高い校風を誇っていました。が、時にこういう事件も起こっていました。

 ただ、この大東鉱山事件は、犯罪(住居侵入・窃盗)には違いありませんが、私にとっては実に子どもらしい出来事。秘密基地の延長のような感覚もありました。

 でも、学年主任の先生のリーダーシップのもと、徹底的に根絶を目指しました。該当保護者は、学校へ呼び出され、厳しい説諭がなされました。 ……しかし、当時の風潮として、保護者は教員に(全幅の)信頼を寄せておられました。今で言うモンスターペアレンツは皆無、学校に呼び出されるということは恥ずべきことではあっても、教員に反発するようなことはあり得ない世界でした。

 また、教員集団も自信に満ちあふれていました。呼び出しの場で、どんなことを(学年主任が)説諭されたかは、全く記憶にありません。が、実に頼もしい! という印象は残っています。

 子どもの人間的仕付けは、学校が責任を持って行う。その際、保護者に向かって厳重注意もするし、言うべきことは堂々と注文を付ける。 ……学校は、(子どもに併せて)親も指導し、それによって指導の成果を挙げている時代でした。

 若造の私が、この事件から学んだことは多々あります。犯罪は犯罪、子どもだから許されるということはない。発覚した時点で徹底的に指導し、将来立派な社会人となるための礎とする。教員は、(生徒一人一人に対して)わが子のように愛情を持って臨み、時には親に対しても断固たる姿勢で臨む。

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国語の授業


 現在のように「初任者研修」などありません。大学時代、国語の教科書を使っての具体的な「講義」「演習」があったかと問われれば、「いいえ」。せいぜい、実践的な指導を受けたのは、教育実習ぐらいなものです。

                

 月日は前後しますが、大学4年生秋、約1ヶ月半、(大学の先生の仲介で)国府町立大成中学校で「国語」を任されました。東京へ長期研修に行かれる先生の穴埋め役とのこと。青二才に、完全に国語の授業(全学年)を託されたのです。当時は、授業の右も左も分からないような「仮免許」の私です。
 ……今は、大学生がこういう非常勤講師を務めるのは無理かも?

 鳥取市からかなり離れた田舎の小規模校でした。学校の宿直室に泊まり、入浴は学校そばの民家。夕食は(昼の)給食、朝食は食パン。部活動は、軟式庭球部でした。 ……インターネットで検索すると、残念。予想通り、すでに廃校となっていました。

 1980年(昭和55年)4月1日 - 鳥取市国府町中学校組合立邑法第一中学校のうち国府町側を分割し、これと国府町立大成中学校を統合して国府町立国府中学校を設立。(Wikipediaより引用)

 さて、国語の授業ですが、生徒同士の協力学習を実践したものです。今にして思えば勇気があります。画期的です。授業の進行を生徒に託するのですから!

 授業スタイルは、生徒2名が先生代わり(?)で教室の前に立ち、私が事前に示した授業展開に沿って授業を進めるのです。 ……漢字の読み、語句の意味、段落の趣旨など、生徒代表が問いかけ、教室内の生徒に答えさせます。代表生徒も解答を知りません。一緒に辞書を調べたり、これで答えはいいかみんなに問いかけたりして授業を進めます。

 では、青二才の私はどうしていたか? ……教室の後ろに位置して、成り行きを見守っています。代表生徒が困ったときが出番です。それまで、後ろでガマンの限界まで見守ります。

 この授業スタイルは、大学で習ってはいません。たぶん何かをヒントに、自己流儀を発想したと思います。しかし、今にして思えば「教え込み授業」を脱しようという意図を感じます。我ながら素晴らしい。

 しかし、記憶の中の授業は、代表生徒2人が立ち往生している風景ばかりです。何といっても問題点は、計画通りに授業が進まないこと。研修に出かけられた先生には、進度の面できっと迷惑をかけたと思います。

               

 さて、初年度の大東中学校です。「教師用指導書」なるものが存在することを知りました。授業の進め方のサンプルが、事細かに書かれている、教師用「虎の巻」です。これは助かりました。

 気にしたのは、生徒の風評です。私は2年生2学級、3年生2学級の「国語」担当を命じられました。一学年、3人の国語教師で担当するわけです。当然、生徒は他学級の授業と比べます。私が若かったこともあって、遠慮なく注文を付けてきます。特に「進度」です。他の学級と比べて遅れていると、必ず文句を言ってきました。

 ですから、「大成中学校」で実践した授業展開法は、(はなから無理です。国語教師としてのスタートは情けないかな、便利な「教師用指導書」に頼らざるを得ませんでした。

 刺激的だったのは、毎週一時間設定されていた「国語部会」です。国語教員は合計5名。私以外は、40歳以上のの大ベテランばかりです。国語教育のあり方について激論が交わされる、すごい会議でした。専門用語が次々飛び出し、私など完全に蚊帳の外です。 ⇒刺激を受けてというべきか、やむなくというべきか、私も図書を買いあさりました。夜中の2時・3時まで専門書を読み耽ったり、教材研究をしたり、学習プリントを作ったり、……。乗り遅れまいと、必死でした。寝不足の続く新米教員時代でした、……。

 初任者研修はありませんでしたが、この国語部会こそ、まさに私の尻に火を点ける存在です。これなくしては、その後の私の国語教育はありえません。

 進度が気になりながらも、(中間・期末試験とは関係ない)独自の実践も一方では行っていました。「私小説」
(=印象的な出来事を取り上げ生活作文 ⇒自分を主人公に仕立てて命名し、短編小説を書く)、「川柳」、「三行詩」、「名文暗唱」などです。国文法にのめり込んでいたので、これは気合いを入れて生徒に迷惑をかけました。(重箱の隅をつつくようなどうでもいいことまで扱った。)

【例】 「美しいのに」として登場する「美しい」は、終止形か連体形か?
  ⇒「きれいなのに」の場合、(形容動詞)「きれいだ」の連体形に接続して登場するから、したがって上記の場合の「美しい」は連体形である。


 以後の同窓会によると、授業中に私の伴奏でフォークソングを歌わされたり、(『赤ん暴君』など、貴重な授業中にふさわしいか疑問な本の)読み聞かせを聞かされたりもしていたようです、……。ごめんなさい。

 かなり忘却の彼方の部分もありますが、国語科教育の専門書を読みあさった3年間。「教師用指導書」から抜け出そうと、必死になっていた3年間でもありました。指導力については疑問符だらけですが、そういう前向きさでは生徒に許してもらえるかな、……???

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初任校(大東中学校)の3年間
「川柳」にはまっていました。
たまたまお遊びで授業中に紹介したら
子ども達が「自分たちも作りたい」と言い出しました。
それならやってごらん、と時間を与えると
いやはやビックリ仰天雨あられ。
その観察力・表現力に驚かされました。
手元にある作品群は、今でも私の宝です。
当時の生徒の皆さん(=昭和49年度〜51年度)、ありがとうございました。


反抗期 親もわたしに 反抗し

問題集 買うときだけの 元気かな

眠るまい11PM(イレブンピーエム)見るまでは(時代を感じますね・・・)

三年生 いばって歩く 一年廊下

停電で 勉強できず うれし泣き

百面相 プロレス見ている お父さん

参観日 ばかていねいな 諸先生

内申書 ひびくとわれも 床屋さん

新学期 もう夏休み はい卒業

手に汗を にぎらせて はい コマーシャル

夕ご飯 テレビ見たさに 超特急

勉強は だれが 考え出したのか

サイレンで 条件反射 腹の虫

給食は 勉強中と おおちがい

ひみつよが いちばん早く 知れわたる

二人連れ いつもいっしょに トイレまで

中間が やっと終われば もう期末

あと8分 時計を見る顔 多くなる

教科書を 持ったつもりが マンガの本

テスト終え ほっとするのは その日だけ

あと5分 5分だけでも 眠らせて!

徹夜して がんばったのは マンガの本

あんな歌手 どこがいいのか 黄色い声

新聞に ニュースないのが いいニュース

週刊誌 ねだんは上がり ページ減る

辞典買い 3年たっても まだ新品

はえぼんぼ どなってみても 耳はなし

遺伝とは こんなにこわい ものなのか

授業中 先生ひとり 納得し

これからは やるなで終わる 女子生徒

となりだが 先生自転車 わたし徒歩

先生は 生徒に言って 自分せず

参観日 上がっているのは 子より親

親の見栄 ぎせいはいつも その子ども

母さんの こごとがそのまま 学校へ

将来の ためよとどなる うちの親

あす自習 遊びの計画 花ざかり

6校時 終わりのあいさつ 元気よい

参観日 まわりをながめて 手をあげる

先生が 動けばぼくも 人のかげ

先生の 顔を見ながら 時計見る

教科書に メモしてあるのは マンガだけ

点を見て みんなの表情 ひとつ増え

人のは見 自分は隠す テストの点

いいわけは 宿題は やったんですけれど




(以下は、平成元年度〜2年度吉田中学校生徒作品)

あの先生 いつもひとこと 多いんだ

お前のためだと 親が言い
自慢のためだと 子が直す

ストーブは 遠慮してては 当たれない

体重測定 ずるして量り 次がたいへん

テスト返し 気になるあいつの あの笑顔

冬が来て 今年もわたし 猫になる

小学生 吐く息白く ゴジラの行進

校内マラソン だれが最初に 裏切るか

靴下の においの強き 夏のぼく

アタックを 拾った人向け サーブ打つ

天高く わたし肥ゆる 秋が来る

テスト終え みんなの顔は 花畑

テスト終え すでに心は 猛吹雪

歌はいい 顔が命だ 芸能人

5時間目 睡魔と戦う ひと多し

目をみはり 急いで食べる スイカかな

新学期 人見知りしている わたしです

休日は あっという間に 夜になる

通信簿 開けてビックリ 玉手箱

寮生活 冬でなくても ツンドラ気候

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T先生のこと


 私自身、これまでの教員生活を振り返って、後輩教員を指導したとか、後ろ姿で示したとか、好影響を与えたとか、……そういう誇るべきような記憶がありません。

 その点、(3歳年上の)T先生は衝撃的でした。ちょうど昭和49年4月、同時に着任し、3年間一緒に勤めました。

 年配が圧倒的に多い教員構成にあって、次々と新しい企画を立ち上げ、見事に成功に導いて行かれました。中でも大きな学校行事は、次の3つです。

@ 2年生「教育キャンプ」(吾妻山) 2泊3日
A 1年生「スキー教室」(三井野原スキー場) 1泊2日
B 体育祭「組体操」

 どれ一つ取ってみても、無からのスタートです。(例年通りという)保守的な風潮がなきにしもあらずの学校社会にあって、あえて荒波に乗りだして行かれた、そのパワー・エネルギー・調整力・実践力は、並大抵ではありません。

 そして大きいのは、その一つ一つが生徒への教育愛です。この子らのために一肌脱ぎたい、汗をかきたい。まさに教育者のあるべき姿です。しかも、新たなことを苦心惨憺して実践しても、それに対する報酬(手当)が出るわけではありません。言ってみれば、「無償の行為」です。

 T先生の部活動(男子バレー部)にかける熱意も、並々ならぬものがありました。(例えば)正月は我が家に招き、ごちそうを振る舞うとともに、初詣に出かけるなど、生徒をわが子のようにかわいがっておられました。一気に2年目には、県大会優勝チームを育て上げられました。

 3年目は、しかし野球部顧問に転身です。野球部顧問が転出され、その後(何かと指導が難しい)野球部顧問の引き受け手がなかったのです。体育教員であったT先生の苦悩の日々を知っています。そして、自ら名乗りを上げ、せっかく育て上げたバレー部を人に譲って、野球部顧問に就かれました。

 もう一つ驚きは、部活動指導が終わると、往復20Kmの木次まで雨の日も風の日もランニングをされていたことです。自らも中距離ランナーとして現役だったのです。今思い返しても、自らにむち打つその実行力は、ただ者ではありません。しかも、(70年以上を誇る大東陸上でも、)実際に生徒の前で勇姿を披露しておられました。

 無償の行為といえば、若手教員5人でバンドを組んで、老人ホームを慰問したこともありました。仕掛け人は、むろんT先生です。

 その後の教員人生において、私はその精神をどれほど実践したか? と問われれば、乗り越えるどころか、麓にも達してはいません。気持ちは確かに持ち続けてはいました。が、そのT先生のバイタリティには、ただただ敬服するのみでしかありません、……。

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部活動


 教員初年度、思いがけない、とんでもない部を担当させられました。いちばん苦手な競技「(男子)体操部」顧問を命じられたのです。まさにミスマッチ。今思い返しても、楽しい思い出は何一つ浮かんできません。

 生徒は鉄棒で大車輪の数々を練習します。私は、やっとこさっとこ「け上がり」が精いっぱい。生徒は床でバク転・バク宙を(ひねりを入れながら)練習しています。私は、骨折って前方空中転回がやっとです。跳び箱など、観るだけで震えが来ます。

 実際、背筋が凍る(生徒の)大事故も起きました。いちばん怖かったのは、大車輪で手がすっぽ抜け、5mぐらい吹っ飛んで壁にたたきつけられ、気絶した場面。バク転練習中に脳天から床に落ち、口から泡を吹き出した場面。 ……救急車騒動になりましたが、二つとも何とか事なきを得ました。

 大会で引率すると、相互審判です。専門的知識もないのに審判席に座って採点もしました。いや、させられました。まさに針のむしろに座った心地でした。

 ただ一つ救いがあったとすれば、女子体操部の顧問が専門家だったことです。練習方法などは、初歩から教わりました。

 張り切って一緒にやったのは、体力トレーニングです。体操競技にふさわしい体力トレーニングも、工夫して取り入れました。(生徒には嫌がられたかも知れませんが)これは率先してやりました。

 そんなこんなで、つらい部活動顧問一年間が終わりました。

               

 幸いなことに、翌年度(2年目)はかねてからの学校方針で、男子体操部は廃部となりました。1年生の入部が前年度から止められていました。危険を伴う競技であること、専門家がいないこと、部員数が少ないことが、その理由として挙げられていました。 ⇒翌年度の新3年生3人は、女子体操部と合同練習。

 2年目からは陸上部を命じられました。いちばんやりたい部活動顧問はバスケット部でしたが、校内事情がありますから、わがままは言えません。それに何と言っても、体操部から解放されました!

 陸上競技は、自分としては(短距離走と跳躍は)得意種目でもありました。指導するというよりは、一緒に練習をするというスタンスで指導(?)に当たりました。

 男女併せて50名〜60名という大所帯でしたが、全体的にまじめで前向きな部員でしたから、指導に困った記憶はありません。T先生から練習メニューを教わりながら、炎天下も寒風ももろともせず、私自身は嬉々として部活動を楽しむことが出来ました。自分自身の記録も向上しました。

 大東中学校陸上部は、伝統ある部活動でしたから、大会でも上位を争う選手を次々輩出しました。野球部の助っ人を得て、県駅伝3位にもなりました。

 そして、密かに嬉しかったのは、(当時は月〜土、部活動休止日はありませんでしたから)「陸上部は休養日を入れる方がいい」という方針の下、大会がない限り「日曜日は休部」だったことです。毎週日曜日は「ゆとり」の日が転がり込んできました。

 もっとも、若くて独身だったこともあって、毎週のように生徒が下宿先(お寺の離れ)に遊びに来ていました。

 こうやって、初任校の部活動は、可もなく不可もなし。平々凡々と気楽に過ごす、副業のような位置づけでした。

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1年2組


 ところで学級担任ですが、持ち上がりを切望していたのに、校内人事のふたを開けてみれば、1年生の学級担任。その落胆は、図り知れません。 ……1年間、私の教員としての力量を観ての人事だったと思います。

 しかし、心機一転、とりわけ新入生から学級を担任すると、前の学級担任の陰を引きずっていないというか、私のペースに引き込みやすいというべきか、……学級担任冥利に尽きます。

 この1年2組の学級集団は、成長率がすごかったと思います。とりわけ「ボランティア集団」としては、ぴかいちの学級に育ったと自認しています。

 その立役者は、「マーコ」というニックネームの生徒です。小学校からの情報では指導困難というレッテルが貼られていました。が、特に仲のいい友達(同じクラスメート)はクラスのリーダー格。友達を見れば、だいたい判断は付くものです。

 そして、その通り、Mくんは石炭ストーブが登場する頃から頭角を現し始めました。ストーブ当番は日直が務めていました。が、家が近いこともあって、彼はいつも教室に一番乗り。ストーブ点火という、やっかいでコツのいる仕事を毎日自主的にやってくれました。級友がやってくる頃には、教室はぬくぬくになっていました。

 毎週、週末になると顔を真っ黒にしながら煙突掃除をしてくれました。そして嬉しかったのは、クラスで何かと非難を浴びがちな生徒に声をかけて引き込み、一緒に煙突掃除をしてくれたことです。

 「形から入って心に至る」という言葉がありますが、そのころから、生活態度も徐々によくなったと思います。えらいものです。

 当時の冬は雪がよく降っていました。積雪も50センチに達することさえありました。そうなると、さらにそのMくん、ストーブに火を点けると「雪かき」に繰り出します。 ⇒Mくんの姿を見て、一人また一人、雪かきの人数が(我がクラスから)出てきました。

 掃除や作業の姿は、まさに我がクラスは表彰ものです。その発端には、Mくんがありました。3月、終了式の日の午後、当時は新入生がやってくる行事があったと記憶しています。 ……最後の学級活動・終礼が終わってから、この1年2組学級集団は、全員そろって昇降口始め校舎内の「大掃除」をしてくれました。むろん、学級担任の私のあずかり知らぬことです。りっぱ!

 そのMくん、大東中学校生徒会で「奉仕委員会」が新設されましたが、その初代委員長となりました。大東高校に進学してからは、生徒会長も務めました。まさに、学年集団(同窓生)の信頼すべき、素晴らしいリーダーになっています。

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⇒ 2年5組


 持ち上がり担任が実現しました。しかし、あの誇るべき「1年2組」は分散です。Mくんも、私の担任から外れました。

 しかし、一年間、さまざまな活動をともにしてきていますから、新担任の生徒達の顔と名前はすべて一致しています。気心も知れた生徒も、相当数入っています。学級づくり、仕切直しとしては、やりやすいスタートでした。

 このクラスは、穏やかで人なつこく、男女仲のいい、愛すべき雰囲気にあふれていました。4月スタートから、やりがいとやりやすさのある学級集団でした。

 ただ、6月、突然、都会の中学校から転校生がありました。大東中学校では観ることがなかったタイプの中学生、担任の私も対応力が日々試され続けました。

 嫌がり大儀がる彼を(担当の)陸上部に引きずり込んだり、勉強を教えるからと私の下宿に(家が近かったので、夜)呼び出したり、……。自分なりに彼を大東中にとけ込ませようと努力はしました。

 しかし、いちばん力になってくれたのはクラスメートです。いつも温かく彼を包み込み、認め、励まし、助けていく姿は、感動的でした。彼を中心に、クラスメートが人間的に成長する、という図式です。修学旅行先でも、(高校生とケンカする、行方不明になるなど)小事件が起きましたが、そのときはいつも私ではなく、クラスメートが力になってくれました。

 配慮を擁する生徒がいたとき、実はまわりの生徒が育つ、絶好の教育環境だということを、当時の「2年5組」の生徒達が教えてくれました。それはとりもなおさず、教員にとっても同じことです。生徒指導上、困難な生徒がいたとすれば、教師の力量を高める、絶好のチャンスが到来したと言えるのです。

               

 こうやって、大東中学校の3年間、学級担任としての生活は、毎日毎日が楽しく充実していて、教師冥利に尽きる出来事が数多くありました。

 それはとりもなおさず、(全体として)生徒に恵まれていたこと、保護者の皆さんが青二才の私を一人前の教師として関わり、大事にしてくださったこと、取り巻く教職員集団に恵まれていたことにあります。

 初任校、大東中学校は、私の心のふるさとです。よりどころです。悩んだり迷ったりしたときに戻っていく故郷です。感謝の気持ちでいっぱいです。

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