教員生活を振り返って
(3)
学級担任として

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23.1.16(日)


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学級担任時代
一貫して行ったこと


 教職に就く前から、学級担任になったらやろうと決めていたことが3つあります。
@ 学級だより
A 班ノート
B 朝礼・終礼時の歌声


 奉職から、ありがたいことに連続して16年間、学級担任をさせてもらうことが出来ました。この間、@とAについては一貫して行ってきました。Bについては、13年目の途中でリタイア(15〜16年目は復活したかどうか記憶が不鮮明)しています。

大東中学校  
2年⇒1年⇒2年
阿須那中学校 
2年⇒3年⇒1年⇒3年
頓原中学校  
3年⇒1年⇒2年⇒3年⇒1年⇒2年⇒3年
吉田中学校  
2年⇒3年

 なぜ@〜Bと奉職前から決めてかかっていたのか、それは不明です。でも、今振り返ってみるに、我ながらいいところに目を付けていると思います。もう一度、学級担任がさせてもらえるなら、やっぱり@〜B(少なくとも@A)は実践すると思います。

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学級だより


 最初の学級担任は、2年3組(学年5クラス)36人のクラスでした。しかし、当時は「学級だより」を発行している学級は(全校16クラス中)ありませんでした。ですから、生意気にも若造の私は、先輩の先生方が誰も実践しておられないことを始めたのです。

 もっとも、学級便りとは言っても、内容的にたいしたものではありません。ただ単に、学級からのお知らせ学級での出来事程度のことです。当初の発行は週2回でした。

 するとまもなく、ある先輩(2年生の学級担任)からクレームが来ました。「あんたが そぎゃんことすりゃぁ〜、わしらぁ〜困るんだがのぉ〜。」(=内容的には、こんな感じです。)

 最初、その意味するところが分かりませんでした。 ……つまり、こういうことです。「5クラスある学級担任の一人が、抜け駆けで新しいことをすれば、(保護者からの要望で)他の学級担任に負担がかかるようになる」。

 こういう発想は私になかったので、たいへん当惑しました。学級の子ども達(保護者)のためを思って始めた、実にささやかな実践です。抜け駆けしようなどと、全く思いもつかないことです。 ……しかし、結果的に他の学級担任の中には、負担感を与えていたということです。

 これに類することは、教員生活の中でいくつか経験しました。いろんな考え方があると思いますが、私は思います。

 教員も人それぞれ個性(興味関心・特技)がある。一人一人が、それぞれのよさを存分に発揮し合ってこそ、強力な教員集団が生まれる。素晴らしい教育実践が展開する。お互いに出る杭はたたく、足を引っ張り合っていては、結局一人一人の個性を殺し、子ども達にとって幸せにはつながらない。

 ですから、校長になってもこういうスタンスは貫いているつもりです。一人一人の教員が発想する教育実践は、よほどのことがない限り賛同し、心から応援しているつもりです。現任校でも優秀な教員が、それぞれの発想で、新たな教育実践をスタートしてくれています。もし問題点が生じれば、校長の私が責任を取ればいいのです。

 その一つ一つが、「教育愛」に支えられています。行ったからといって、労力や労苦が増えることはあっても、「手当」が出るわけではありません。そこが頭が下がるところです。

赤来中の特色ある教育活動

 ところで、初任校でスタートした学級便りですが、取りなしてくださった先輩がありました。確か、「せっかくやる気を燃やして頑張っている、若い芽を摘むな」という内容だったと思います。 ……結局、学年主任の仲介で、週2回発行を週1回に減らして、続行することが許されました。

                   

 当時のことですから、発行は「ガリ版と鉄筆」です。学年主任の先生が、老眼鏡をかけて原紙を上に持ち上げて、透かすようにして点検をしておられる姿が、今でも脳裏に甦ってきます。

 小さな訂正は、赤チンのような液体で簡単に修正出来ます。でも、大幅な修正を命じられたときがたいへんです。赤チンをべたっと塗りたくって、乾いてからその上に鉄筆で書くわけですが、時にはビリッと破れることもあります。そうなったら、最初から作り直しです。

 その後、まもなくして「ボールペン原紙」が出てきました。ほぼ同時に、ふつうの紙に文字を書いたり絵を描いたりすると、くるくる高速で回る機械が(針で)原紙を作ってくれるという、優れた機械が登場しました。これがまた、ものすごい悪臭を発しました。

 日本の科学技術の進展は、すさまじいものがあります。今ではあっけなく印刷用原紙が作成され、プリントアウトされます。しかも、パソコン(ワープロ)内で、好き勝手に編集作業が出来ます。加除修正も自由自在です。労力削減どころか、センスさえあれば、新聞社のような(学級)新聞も制作可能です。

                   

 学級便りの内容ですが、自分としては少しずつ進化し続けたと思っています。当初は「出来事のお知らせ」程度の役割でしたが、次第に「学級の世論」を醸成する、有力な武器(?)となっていきました。

 そのいちばんは、担任の演説ではありません。何といっても、子ども達の言動の取材です。学級内の動きをよく観察していると、ほろっとする出来事や、感動的な事件などが次々と起こります。 ……それらをすくい取って、すかさず記事にするのです。

 ですから、担任の「眼」(=心)が問われます。逆に言えば、取材・発行を通して、自分自身が育てられます。また、育つことによって発信する価値の高い記事が増えます。

 その延長線上に現在、私自身が業務としている勤務校のホームページと「学校だより」があります。

    (^^)/ 今年度も、このHPをとおして、子ども達のがんばりや 教職員の真摯な姿を お届けするとともに、子ども達に エールを送りつづけたいと 考えています。

 まさに、自分自身の観察眼、教育愛、識見、教師の力量が丸裸となります。 ……今でも、自分自身の中では戦い続けています。自分が作成したホームページや学校便りを見返して、「あ〜ぁ、何とも無味乾燥なHP(たより)だなぁ〜」と嘆く日が少なくありません。逆に、(多くないのが残念ですが)いい写真が撮れたり、いい記事が書けたりしたときは、心の底から喜びを感じます。

                   

 ちなみに、その後の「学級だより」(発行回数)ですが、印刷技術の進展とともに、だんだん学校に発行が広がってきたこともあります。抵抗感が薄れ、次第に頻繁に発行するようになりました。

 頓原中時代には、年間授業約240日にあって、年間発行回数が180号を超した年もありました。部活動であくせくしている時代に、よくぞそんな時間が生み出せたものだと、今更ながら不思議です。この年には、(卒業時に)保護者から感謝状をいただきました。 ……ただし、くれぐれも感謝されるために発行したわけではありません

 2校目、バレー部を担当してからは、毎週一回発行で「部活動だより」も発行し始めました。

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学級朝礼・終礼時
歌声


 なぜ「歌声」なのか?

 学生時代の寮生活が原点にあります。友と一緒に歌ったフォークソング、何と心が浮き立ち、活力が沸いてきたことか! その時期にマスターした「フォークギター」も、原動力の一つです。

 70年代のフォークソングは、名曲満載です。それら一曲一曲を、子ども達と一緒に高らかに歌いたい。これがいちばんの理由です。一週間に一曲ずつのペースで生徒に教えて、一緒に歌いました。伴奏は、私のギターです。

 たった一曲が3分程度ですから、朝礼・終礼時の導入に問題はありません。始まりを厳守するとともに、私の話を簡潔にすればいいのです。新しい歌を教えるといっても、最初は、はずかしげもなく私の独唱です。子どもはメロディーを覚えるのが早いですから、翌日には生徒の歌声がしっかりと聞き取れるようになります。週末には、学生時代の寮生活が彷彿とします。

  
 不思議なものです。いや、当然のことです。歌声の大きさは、学級集団の活力と比例します。子ども一人一人もそうです。「おはようございます」の挨拶ともぴたりと比例します。

 時には、か細い声の学級集団を担任する年もあります。例外なく、学級集団づくりに苦心惨憺しました。逆に、最初から元気のいい歌声を響かせる学級集団は、集団自体パワーがあります。授業も活力があって前向き、係活動や掃除も陰ひなたなく立派。学級づくりもやりやすい集団でした。

 ですから、歌声はバロメーターです。逆転の発想で、毎日大きな声で歌うよう頑張らせることで、学級集団の活力を引き出していくことが出来ます。 ……ですから、私がお手本にならなければいけません。(たとえ寝不足で元気のない日でも)私は、恥ずかしげもなく、渾身の力を込めて歌いました。

 卒業後の同窓会で、ギター持参を所望されることが少なくありません。3年前は、学級担任したことがない(大東中)同窓会に招かれ、このときもギター持参を命じられました。国語を担当した2学級の教え子達とともに、ステージに上がらされ、私のギター伴奏で「友よ」を歌いました。 ……記憶にないのですが、国語の授業で一緒に歌わされたそうです。

友よ(岩谷)/うたごえサークルおけら


               

 ところで、その歌声ですが、3校目(頓原中)の確か6年目中途で挫折しました。

 この学級集団は今でも自慢の学級です。自主性、主体性に富み、活力旺盛。部活動の成績も優秀なら、成績も雲南三郡11校で常に上位(400点以上が十数人)でした。

 しかし、ある時、隣の教室の生徒が私に言った言葉がきっかけです。「先生の歌声ばっかり聞こえる」という内容でした。まぁ、いつも空元気で歌っていましたから、それはそれでいいとして、ふと「生徒に無理強いしてるのではないか?」と気がついたのです。

 それとなしに、個人的に何人かに尋ねました。すると、「私が歌えというから歌っている」という非積極的な回答が返ってきたのです。 ……そういえば、私自身もマンネリ化、義務感のようなものを感じ始めている時期でもありました。

 そこで生徒達に提案し、しばらく歌うことを中断しました。内心では、「また歌いましょう!」という生徒からの声を期待しながら、……。ところが、気運は盛り上がりませんでした。結局、途中挫折と相成りました。

 次の勤務校(吉田中)では歌ったかどうか? いくら記憶をたどっても思い出せません。でも、教員談話室(喫煙室)で、ギターを抱えている写真が残っています。きっと心機一転、フォークソングの歌声を復活させたのではないかと思います。

 そして、今でも思います。歌える学級集団は活力があり、心にわだかまりがない。いじめなどは起こりえない。

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