教員生活を振り返って
(2)
初任校着任まで

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23.1.9(日)


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退職の年にあたり
私の教員生活を振り返ることにしました。



教員採用試験


 近年、島根県の教員採用はきわめて厳しい状況にあります。

                   平成23年度
採用人数 受験者数 今年度
倍率
昨年度
倍率
小学校 80 391 5.0 5.5
中学校 30 378 12.6 12.3
高等学校 20 339 17.1 12.6

 文部科学省のデータを見ると、競争率(倍率)については、(小・中・高平均で)高知県が23.0倍と最も高く、次いで岩手県(20.6倍)、秋田県(20.4倍)、鳥取県(18.3倍)、沖縄県(17.9倍)の順。島根県は10.3倍、全国平均は7.3倍となっています。都会地では、(千葉4.5倍、東京4.7倍など)倍率が緩和されてきています。下表は、全国の採用状況(倍率)です。

採用年度 小学校 中学校 高等学校
2001(平成13年度) 9.3倍 16.0倍 13.4倍
2002(平成14年度) 6.3倍 12.0倍 13.9倍
2003(平成15年度) 5.3倍 11.8倍 13.9倍
2004(平成16年度) 4.8倍 11.3倍 14.1倍
2005(平成17年度) 4.5倍 11.7倍 14.0倍
2006(平成18年度) 4.2倍 11.7倍 13.3倍
2007(平成19年度) 4.6倍 9.8倍 14.2倍
2008(平成20年度) 4.3倍 8.3倍 12.8倍
2009(平成21年度) 3.8倍 7.4倍 8.4倍
2010(平成22年度) 4.3倍 7.2倍 9.4倍


 島根県も少しずつ緩和へと向かいつつあります。教員の年齢構成から行くと、40歳代後半から50歳代前半に大きな「山」がありますから、あと4〜5年の辛抱です。

 ちなみに、私も教員採用試験に関わっていた時期があります。当時は、小学校教員の採用人数が20名〜25名に対して、受験生が約500人近くいました。50人綴りの解答用紙を採点しながら、「この綴りの中で合格は、たった2人。不合格は48人か!」と、ため息が出るほどでした。その多くが70点台に集中していましたから、まさに1点〜2点の世界で合否が決まっていたと思われます。

 ところで、近年の島根県採用試験(内容)ですが、昔(私が受検した頃)と比べて信じられないほど高いハードルとなっています。何と言っても、「模擬授業」がいちばんのネックです。立場上、これまで何人もの受験生を相手に指導をしてきました。

 指導をしながら、立場が逆(=受験生)ならと考えると、くらくらがつきそうです。気の毒です。自分の時代に、こんなパターンがなくて本当によかったと思います。

 こんな状況ですから、大学を卒業してすぐに採用なんて、とんでもありません。少なくとも教育現場で経験を積まないことには、とても「模擬授業」など太刀打ち出来るとは思えません。

 正直な気持ちを述べると、ペーパーテストも模擬授業も小論文も、それはそれで選抜の方法としては致し方ないと思います。でも、人間は総合的に判断されるべき。とりわけ「教員」は、実際に学校に勤務して、生徒と関わって、授業をしたり校務活動をしたり部活動をしたりする中で、適性が見えてくるものです。

 ですから、本当に優れた教員を採用しようと思ったら、(校長による)「講師」の評価がいちばん実際的かと思われます。もっとも、公平性について課題があるので、実現は難しいですね。

 蛇足ですが、8月と2月には「講師評定」があります。案外、県教委は8月の評価は教員採用試験、2月の評価は4月からの「期限付き講師」採用の参考にしているのかも知れません、……?

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運を天に任せて……!


 私の採用試験はどうだったか?

 何としても島根県で働きたいという希望を抱いていました。が、当時も島根県は、採用人数が多くありませんでした。確か、国語は「中学校・高校」のくくりで募集されていたと記憶しています。

 やむなく、広島県と(なぜここを受検したか思い出せませんが)奈良県も受検しました。運良く島根県を含めて3カ所とも合格しました。ただ、「合格」はイクオール「採用」ではなく「名簿搭載」とのことだったので、「広島県」も意思表示をして残し、二またをかけて3月の「採用通知」を待ちました。

 ちなみに、採用試験内容ですが、奈良県と広島県はすっかり忘れました。島根県の「専門教科の問題」は、夏目漱石に関する超長文が出題されました。確か大問題が2〜3問のみ(いずれも記述式)だったと記憶しています。「どうやって採点するんだろう?」という不安感と不審感が、頭の隅に残っています。

 また、「適性検査」は「クレペリン検査」が行われました。この検査は、大学で習ったり実際にやったりしていたので、どういう曲線になればいいのかが分かっていました。困惑しながらも、頑張って「正常曲線」になるよう努力したと思います。

 面接は、記憶では試験官がたった一人(=そんなことはないですか?)。あっけなくすぐに終わったように思います。 ……はっきりしていることは、(二次試験まである)現在の採用試験と比べたら、模擬授業も小論文もないし、当時は実に単純明快だったということです。

                  
                  
                  

 そして、3月の「採用通知」(電話連絡)を待ちました。当時のことですから、携帯電話はありません。外出も控えるようにして、連絡があるのを心待ちにしていました。 ……内心、「島根県より先に、広島県から連絡があったらどうしよう!?」と、どきどきしていました。対策も何もありません、先に声をかけてもらった方に、単純に就職する心づもりでした。

 採用の電話は、偶然にも同じ日でした。明るい時間帯に、島根県教委から「大東中学校」という電話があり、もちろん快諾。跳び上がるほどの嬉しさだったことを、今でも思い出します。

 広島県教委からは暗くなってからでした。それも、二次の面接は(我が家から30分の場所にある)三次市で行われ、採用は「三次教育事務所管内」というはずだったのに、勤務校は「呉教育事務所」管内の中学校でした。

 もし、先に広島県から電話がかかってきていたらと思うと、(島根県の結果が不明だっただけに)ぞっとします。はたして断る勇気があったかどうか、事情を話して返事を待ってもらうようにしたか(=これはきっと無理)、……。いずれにしても、運命の一日でした。

 蛇足ですが、その年、島根県中学校教員、採用人数は30数人。中学校「国語」は、3人(倍率は不明)でした。

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着任まで


 ネコヤナギが芽吹く3月末、大東中学校を見学しに出かけました。訪問した時間帯は忘れました。生徒の姿は思い浮かびません。

 周辺をぶらぶら散策し、校舎裏山(丸小山)にも上ってみました。ここから私の教員生活がスタートするんだ。 ……心弾むような春の香りに包まれて、何とも言えない喜びに満たされていた印象が残っています。

 一方、校務分掌を告げられた記憶が、別の世界として残っています。きっと、この日は校長先生にお会いしたのではないかと思います。2年3組担任、……採用初年度から、よくぞ学級担任を任せてもらえたものだと、今更ながら感謝の気持ちでいっぱいです。

 「学級担任」は、私の教員生活のステイタス。その後の転勤に際しても、異動挨拶(電話)の際は、「学級担任をさせてください。」と校長先生にお願いし続けました。 ⇒そして、ありがたいことに初任校から4校連続して16年間、学級担任をさせてもらえました。

 問題は部活動。私自身の希望は、奉職当初からバスケット部です。自分自身の経歴は、中学校時代がバスケット、高校時代が陸上競技(途中退部)、大学時代が硬式テニスです。こういう経験を経てきて、いちばん生徒とともに心血を注ぎたいのは、こだわりを持っていたのはバスケット部です。

 ところが、校長先生から告げられたのは、「キミは体育の免許を持っているし、若いから」という理由とともに、「(男子)体操部」! ……体の柔軟性に乏しく、体育の種目の中でもいちばん苦手とする「体操競技」です。大学出たての若造に、拒む勇気はありません。

 こうやって、私の教員生活は、わくわくする気持ちとともに、不吉な重荷を背負ってのスタートとなりました。

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