私が教員を目指したのは、高校3年生。大学の学部を決めるときです。
小学校の卒業文集には、将来の夢として「宇宙飛行士」と書いています。「宇宙に飛び出して、地球にないすごい資源をもって帰る」などとも書いています。まさに夢のまた夢です。
中学校時代については、記録に残したものはありませんが、「飛行機のパイロット」、「弁護士」が念頭にあったと思います。理由は定かではありません。パイロットは、格好いいと思ったのかも知れません。弁護士は、「レ・ミゼラブル」(ああ無情)の影響があったような気もしています。
高校は田舎を離れて、こともあろうに大東京に学びました。 ……しかし、ここで自覚したことは、「井の中の蛙大海を知らず」です。
都立高校(学校群制度が始まる前の都立高校は、クラス6〜8番以内の学力が必要でした)を受験するためには、12月1日時点で東京都民でないと資格がないことが判明。急遽、(内申書(=当時は入試の50%を占める)のことも考慮して)中3の2学期開始と同時に転校しました。
居住地(叔父の家に逗留=経緯は長くなるので省略)は足立区でしたが、近くの中学校が荒れているとのこと。電車で片道50分、東武線と地下鉄日比谷線を乗り継いで、(東京のど真ん中)中央区立文海中学校へ通いました。
そして、次第にはっきりしたことは、田舎ではトップを争う成績だったかも知れないが、都会ではそう甘くないという現実です。結局、内申書が思うほどの成績ではなく、第5学区(中央区・足立区・台東区・荒川区)の最高峰、(毎年
東大合格者を40〜50人輩出する名門校)上野高校は断念せざるをえませんでした。 ……それでも、次に目指した江北高校も、内申書の関係から、当日の学力試験で最低(9教科合計)720点〜740点が合格ライン。 ⇒たぶん、ぎりぎりセーフの合格だったか? と思います。
【東京都立江北高等学校】
1938年に東京府立第十一中学校(男子校)として開校。
1950〜60年代は第五学区で上野に次ぐ位置にあり、毎年数十名を早慶・国立大学へ輩出していた。学校群制度時(1967年
学校群制度導入)は、52群の上野・白鴎に次ぐ進学校であったが、その後は進学実績が低迷した。
現在は7時間授業の導入、教員公募制の実施、2006年から都の重点支援校指定、2007年から駿台予備学校と提携してオンデマンド駿台サテネットシステムが導入されるなど、進学実績上昇のために改革が進んでいる。
2008年からは新入生合宿、勉強合宿、土曜授業の復活などが新たに行われた。これらの取組が評価されたこともあり、2010年度より進学指導推進校に指定されている。
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〜「ウィキペディア」より引用〜
夢を描いて入学した高校は、(都立高校の元男子校の大半がそうであったように入学試験も別選抜)男女別クラス編成。男子生徒350名、女子生徒100名、計450名。それでも最初2回の校内試験は、45位と53位。我ながらまずまず健闘したように思います。
が、その後は中位を行ったり来たり、……。その他大勢の中の一人でしかありませんでした。そういう中で、次第に将来のことを真剣に考える時期を迎えました。
もともと父は、かねがね息子に語りかけていました。「いずれ農業では食っていけんようになる。ちゃんと勉強して、……。」とのこと。つまり、長男の私に「跡取り」はしてほしいが、農業後継者としては期待していない口ぶり。当時はよく分かりませんでしたが、なるほど、その後の社会の変化は、第一次産業が低迷。特に米作りは農業後継者不足に泣き、さんざんな目に遭っています。ある意味、父は先見の明があったとも言えます。
ただ、大学の学部を考えるに際しては、農学部を強く主張して譲りませんでした。そんな中、私がそれに抗して選んだのは「教育学部」でした。
その理由が、今思い出しても定かではないのですが、「跡取り」(里帰り)を強く意識していたことは間違いありません。そして、おそらくは自分自身の「来し方」を振り返り、中学校時代の感激が教員を選ばせたと思っています。
当時はどこまで、そのことを意識していたか不明です。しかし、部活動を中心として、中学校時代の強烈で刺激的な日々が、私の将来に大なり小なり影響したと、いつの頃からか思っています。
そして教科ですが、選んだのは「国語」です。もともと、とらえどころのない軟体動物のような「国語」は、私にとって扱いにくい教科でした。その点、すっきりしているのは「数学」です。得意教科でもありました。
が、自分が分かり切っていることを、毎年毎年、定年まで教え続けるという気怠い印象が、数学を避けさせました。 ……該当者にはごめんなさい。実際には、教えるという世界は奥が深いと思います。
その点、どちらかといえば苦手教科とも言える「国語」は、自分自身の日常生活と関わっています。読む・書く・話す・聞く、いずれも教えるというスタンスをとりながら、自分自身の成長とも直結しています。
英語と理科は、どちらかといえば好きではない教科。社会は、(生意気にも)先生がいなくても何とかなる、と考えていました。
ところで、教員生活を終えようとしている今、教科をどう感じているかですが、つくづく「国語」を選んでよかったと思っています。国語はもはや、とらえどころのない教科ではなくなっています。豊かな生活とも直結する重要教科でもあります。
ただ、数学は、やっぱり「教え甲斐がある」、「子どもの成長が目に見えやすい」という醍醐味があります。国語とは違った、教師冥利に尽きる(学習塾も、英語と数学が中心)という一面があります。