教員生活を振り返って
(1)
教員を目指すまで

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23.1.2(日)


コメントの部屋へもどる

記録的な寒波襲来とともに
新しい年が幕を開けました。
ところで
この「コメントの部屋」は
平成15年1月4日を皮切りに
(平成17年6月〜12月の中断はありましたが)
足かけ7年間 切れ目なく
毎週末掲載というスタンスで
継続してきました。
一方
私は今春3月末をもって
退職となります。
この「コメントの部屋」も先が見えてきました。
ということで
残る期間は
まったく個人的な内容ではありますが
教員生活を振り返ってみることにしました。





「コメントの部屋」の歩み


 この「コメントの部屋」ですが、平成15年1月4日(土)、最初のコメントを掲載しました。以後、会長職を辞した平成17年5月まで(平成20年5月、会長に復帰)、毎週一回、掲載し続けました。

15.01.04(土) 「朝の読書」の更なる浸透と発展を期待

 2年間 島根県学校図書館協議会 副会長を務めた後、会長に就いたのが、平成12年5月です。ところが、会長とは名ばかり。学校図書館のこと、読書生活のことなど、まだまだ不案内のことばかりでした。

 このホームページを立ち上げたのが、(翌年)平成13年7月でした。毎日更新を目指して、さまざまな情報を掲載し続けました。それはとりもなおさず、情報提供の意味合いとともに、自らの学習のためでもありました。

 そういう中にあって、さらに進んで、毎週一回、さまざまなこと(学校図書館・読書など)について取り上げ、自分なりの見解を述べる場を新設したのです。

 そういう経緯のある「コメントの部屋」ですが、中断した翌年(平成18年)一月、再び掲載を始めました。場所も「島根県学校図書館協議会ホームページ」から、(勤務校)赤来中学校ホームページ「校長の部屋」に移しました。内容的にも、広く「学校教育」全般にわたるようになりました。 ……そして今日に至っています。

 今春3月末日をもって、私は退職の日を迎えます。教職を終えるとともに、「コメントの部屋」も幕を閉じる日がやってきます。

 そこで、今回からしばらく、私の教員生活を振り返って記載を進めることとしました。もともと「コメントの部屋」は、ほとんど訪問者がありません。自分自身に課した試練でもあるとともに、自分自身のために書いているようなものです。そういう意味合いとスタンスの下に、(まったく個人的な内容となりそうですが)自分が歩んできた道を振り返ることとしました。

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中学校「国語」にたどり着くまで……


 私が教員を目指したのは、高校3年生。大学の学部を決めるときです。

 小学校の卒業文集には、将来の夢として「宇宙飛行士」と書いています。「宇宙に飛び出して、地球にないすごい資源をもって帰る」などとも書いています。まさに夢のまた夢です。

 中学校時代については、記録に残したものはありませんが、「飛行機のパイロット」、「弁護士」が念頭にあったと思います。理由は定かではありません。パイロットは、格好いいと思ったのかも知れません。弁護士は、「レ・ミゼラブル」(ああ無情)の影響があったような気もしています。

 高校は田舎を離れて、こともあろうに大東京に学びました。 ……しかし、ここで自覚したことは、「井の中の蛙大海を知らず」です。

 都立高校
(学校群制度が始まる前の都立高校は、クラス6〜8番以内の学力が必要でした)を受験するためには、12月1日時点で東京都民でないと資格がないことが判明。急遽、(内申書(=当時は入試の50%を占める)のことも考慮して)中3の2学期開始と同時に転校しました。

 居住地(叔父の家に逗留
=経緯は長くなるので省略)は足立区でしたが、近くの中学校が荒れているとのこと。電車で片道50分、東武線と地下鉄日比谷線を乗り継いで、(東京のど真ん中)中央区立文海中学校へ通いました。

 そして、次第にはっきりしたことは、田舎ではトップを争う成績だったかも知れないが、都会ではそう甘くないという現実です。結局、内申書が思うほどの成績ではなく、第5学区(中央区・足立区・台東区・荒川区)の最高峰、(毎年 東大合格者を40〜50人輩出する名門校)上野高校は断念せざるをえませんでした。 ……それでも、次に目指した江北高校も、内申書の関係から、当日の学力試験で最低(9教科合計)720点〜740点が合格ライン。 ⇒たぶん、ぎりぎりセーフの合格だったか? と思います。

【東京都立江北高等学校】

 1938年に東京府立第十一中学校(男子校)として開校。
 1950〜60年代は第五学区で上野に次ぐ位置にあり、毎年数十名を早慶・国立大学へ輩出していた。学校群制度時(1967年 学校群制度導入)は、52群の上野・白鴎に次ぐ進学校であったが、その後は進学実績が低迷した。
 現在は7時間授業の導入、教員公募制の実施、2006年から都の重点支援校指定、2007年から駿台予備学校と提携してオンデマンド駿台サテネットシステムが導入されるなど、進学実績上昇のために改革が進んでいる。
 2008年からは新入生合宿、勉強合宿、土曜授業の復活などが新たに行われた。これらの取組が評価されたこともあり、2010年度より進学指導推進校に指定されている。

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〜「ウィキペディア」より引用〜


 夢を描いて入学した高校は、(都立高校の元男子校の大半がそうであったように入学試験も別選抜)男女別クラス編成。男子生徒350名、女子生徒100名、計450名。それでも最初2回の校内試験は、45位と53位。我ながらまずまず健闘したように思います。

 が、その後は中位を行ったり来たり、……。その他大勢の中の一人でしかありませんでした。そういう中で、次第に将来のことを真剣に考える時期を迎えました。


 もともと父は、かねがね息子に語りかけていました。「いずれ農業では食っていけんようになる。ちゃんと勉強して、……。」とのこと。つまり、長男の私に「跡取り」はしてほしいが、農業後継者としては期待していない口ぶり。当時はよく分かりませんでしたが、なるほど、その後の社会の変化は、第一次産業が低迷。特に米作りは農業後継者不足に泣き、さんざんな目に遭っています。ある意味、父は先見の明があったとも言えます。

 ただ、大学の学部を考えるに際しては、農学部を強く主張して譲りませんでした。そんな中、私がそれに抗して選んだのは「教育学部」でした。

 その理由が、今思い出しても定かではないのですが、「跡取り」(里帰り)を強く意識していたことは間違いありません。そして、おそらくは自分自身の「来し方」を振り返り、中学校時代の感激が教員を選ばせたと思っています。

 当時はどこまで、そのことを意識していたか不明です。しかし、部活動を中心として、中学校時代の強烈で刺激的な日々が、私の将来に大なり小なり影響したと、いつの頃からか思っています。

 そして教科ですが、選んだのは「国語」です。もともと、とらえどころのない軟体動物のような「国語」は、私にとって扱いにくい教科でした。その点、すっきりしているのは「数学」です。得意教科でもありました。

 が、自分が分かり切っていることを、毎年毎年、定年まで教え続けるという気怠い印象が、数学を避けさせました。 ……該当者にはごめんなさい。実際には、教えるという世界は奥が深いと思います。

 その点、どちらかといえば苦手教科とも言える「国語」は、自分自身の日常生活と関わっています。読む・書く・話す・聞く、いずれも教えるというスタンスをとりながら、自分自身の成長とも直結しています。

 英語と理科は、どちらかといえば好きではない教科。社会は、(生意気にも)先生がいなくても何とかなる、と考えていました。

 ところで、教員生活を終えようとしている今、教科をどう感じているかですが、つくづく「国語」を選んでよかったと思っています。国語はもはや、とらえどころのない教科ではなくなっています。豊かな生活とも直結する重要教科でもあります。

 ただ、数学は、やっぱり「教え甲斐がある」、「子どもの成長が目に見えやすい」という醍醐味があります。国語とは違った、教師冥利に尽きる(学習塾も、英語と数学が中心)という一面があります。

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就職試験に立ち向かうまで……


 大学入学後、さまざまなバイト(といっても4〜5種類)を体験しましたが、私にとって一番やりがいがあったのは、何といっても「家庭教師」です。関わったのは3人。算数(数学)や英語が中心でしたが、理解してもらえる喜び、成績が向上する喜びは、他のバイトではあり得ない世界でした。

 さらに、小学校4年の女の子(今にして思えば、典型的なアスペルガー症候群)を担当して、勉強に気持ちを向かわせていく難しさと喜びを体験しました。これは刺激的でした。

 自分の進路(学部)選択は間違いなかったと、学生時代に確信を持つようになりました。
  
            

 なお、島根県で就職するためには「複数免許」が絶対条件という情報を得たこと、実際に単位取得に余裕があることが理由で、「副免」を取りました。選んだ教科は、「保健体育」です。2教科とも座学はイヤだった、もともと運動は得意な方だったという、単純な理由から選んだ保健体育です。

 ところが、いやはや単位取得には(時に)血のにじむような思いをしました。特に(山に育った私にとって)「水泳」は最悪でした。プールサイドやプールトイレで、幾度吐いたことか、……。サッカーは、炎天下たった3人の受講生にも気が遠くなりました。しかも、半年間、毎週3時間頑張って、やっと1単位(国語は週2時間で2単位)。その努力をかんがみて、納得出来ない現実ではありました。
 
    

 実際に保健体育の授業を担当したのは、2校目(阿須那中学校)の4年間のみでした。 ……若かったこともあって、生徒と一緒にスポーツを楽しんだという印象が残っています。該当の皆さんには、ごめんなさい。

 ちなみに、大学4回生になると(順調に単位を取得したこともあって)、ほとんど「卒論」のみという天国のような生活が待っていました。

 が、私が選んだのは、果敢にももう一つ「免許」を取ること。先ほどの小学4年生の家庭教師を通して、学力が遅れがちな子どもへの指導に関心を抱いたのが発端です。

 選んだのは「特殊教育」(今でいう、特別支援教育)です。保健体育は1級免許でしたが、これは1級は無理。2級免許取得を目指しました。

 付属中学校で2週間、教育実習もありました。 ……今にして思えば、このときの教育実習は、私の(大げさにいえば)人生観を変えています。

 一番ショックだったのは、学級の生徒に必死で計算を教えて、やっとの思いで理解してくれ握手もしたのに、翌日はまた元からやり直し、……。このことに関わって、「だから教科学習ではなくて、生活単元学習だ」という説明を、担当の先生から受けました。

 また、学級の生徒2人と連れだって校内を歩いているとき、通常の学級の生徒数人とすれ違いざまに、「バカが歩いとる」というつぶやきが聞こえてきた出来事は、今も強く記憶に残っています。そして、それに対して、私は何も言わずにその場をやり過ごしました。今でも、情けなく悔しい気持ちを残したままになっています。

 途中を大幅に省略しましたが、こんな経緯を経て大学4年の夏、就職試験に立ち向かうことになります。

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