忠義の士
烏田権兵衛

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2020.6.7(日)


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全く個人的な話題ですが
私は
烏田家の第27代目ということになっています。
先祖には
烏田権兵衛勝定(からすだごんのひょうえかつさだと名乗る武将がいました。
戦国時代(尼子・毛利時代)に活躍したとのこと。
お家の大事に当たって大勢に組みせず
忠孝を貫いた武将として
『雲陽軍実記』に記されています。

この「生き方」は、
父から「我が家の家訓」として教えを受け
陰に陽に
私自身の指針となっています。



『雲陽軍実記』

 出雲国に勢力を張った、尼子氏の盛衰を描いた歴史書。尼子家臣の河本大八隆政(1521年〜没年不詳)が、大名としての尼子氏滅亡後の1580年頃に著したとされる。

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以下は、飯南町教育委員会ホームページから引用させていただきました。

第2回目の戦火
〜毛利氏との攻防〜


 烏田権兵衛は恩顧の主君への忠義を貫き、勝てるはずのない毛利元就の大軍に戦いを挑んだ忠義の士である。

 地区内にある賀田城は烏田権兵衛の居城とされ、地域内のシンボル的存在である。地位の住民はこの侍の行動を誇りと考えており、烏田権兵衛を顕彰する催しなどを行っている。

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 「当世において珍しいほどの忠義の士である、彼のような人物が私の味方についてくれたならどれほど心強いだろう」   ・・・これは毛利元就が烏田権兵衛勝定について評した言葉です。

 1562年、毛利元就は中国地方の制覇の総仕上げとして長年の宿敵であった尼子氏を討つべく大軍を出雲地方に差し向けました。尼子方であった多くの武将が毛利側に寝返り、尼子氏は風前のともし火といった状況になりつつありました。

 毛利の軍勢が瀬戸山城(飯南町赤名)に迫るなか、赤穴右京介(久清)の籠る城中では、40年来仕えて来た尼子方に味方するか否かの激論が交わされていました。今の状況で、毛利軍と戦っても利なく、毛利方への降伏に決しようとしていたその時、昂然として反論する二人の武将がいました。
 

 「我々は古来、尼子家に仕え、禄を受け、我々の代に至るまで二心なく仕えている。今、たまたま石見の国が毛利に切り取られたからといって矛を逆さまにして毛利に降参することは武士の本意にあらず。」

 烏田権兵衛と森田左衛門は尼子氏に忠義を尽くすべきだと主張し、とうとう「入日の尼子を見限り、日の出の毛利つくような臆病者に組することはできない。」として瀬戸山城を出て毛利軍に戦いを挑む選択をしました。

 烏田と森田は賀田城(飯南町下来島)などを拠点に、赤名に着陣した毛利軍の陣を襲ったり、神出鬼没の戦いで進軍を妨害しました。数回にわたって掃討の軍を送った元就でしたが、失敗に終わる状況を見て、しびれをきらせ、烏田・森田のかつての主君であった赤穴右京介(久清)を呼びだし、問い詰めました。

 「反乱を率いるはそこもと譜代の家臣と聞く、この不祥事にもかかわらず、率先して鎮圧に当たられないのはいかなることか」

 これに対し、赤穴右京介(久清)は毅然と、また、ありのままに申し立てました。

 「確かに両人は、わたくしの家臣であります。しかしながら、彼等は、恩顧の尼子家に忠義を貫き、武士としての道を貫いております。主従の関係ではなくとも、人道の正しきは彼等にあって非義は私にあります。今は敵対する関係となりましたが、私が忠義一途の両人を討つ事はできません。」

 元就は、しばらく沈黙した後、こう答えました。

 「貴殿が私どもに降参されたことは確かに武士の本意ではない、彼等の守る義にこそ理があって当然である。誠にあっぱれなる主従である。」

 やがて烏田権兵衛は討ち死にし、森田左衛門は尼子氏を頼って退き、一揆の軍勢は鎮圧されましたが、彼等についてを元就は家臣にこう語ったといわれています。 

 「右京介は古今の義者、烏田、森田は伯夷・叔斉なり。この人傑、味方に属しては末頼もしき事なり。」
                     
 烏田権兵衛の忠義心に感服した元就は、権兵衛が討ち死にした後も、烏田家が存続するよう取り計らったと伝えられています。

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『尼子毛利合戦雲陽軍実記』 勝田勝年 校注
     『新雲陽軍実記』妹尾豊三郎 編著       
を参考にしています。


以上は引用です。




瀬戸山城

賀田城

赤穴右京介




飯南町の歴史と文化-地図で辿る-瀬戸山城
〜引用したサイト〜




風見鶏


 遠い昔のことですので、正直なところはピンと来ない面はありますが、子孫の一人として誇らしいことだなと思っています。

 当時は、「風見鶏」ではありませんが、「風を読む」ことが生き残りの知恵として重宝されていた時代だったと認識しています。勢力の強い方へ組みすることによって、城下が戦場になることを避け、一族の生き残りにもつながります。

 戦ってみないと分からない戦は別として、負けることが分かっていて、あえて討ち死にすることほど無駄なことはありません。

 この赤来地域は、近隣では、実際に戦場となった古戦場を残している数少ない場所です。

 以下の引用は、(時は前後しますが、)烏田権兵衛が討ち死にする前、大内氏が出雲地方に攻め込んだときの様子です。

 この時は、赤穴氏は正面切って戦うことを決意し、4万の大群を相手にわずか2千の軍勢で果敢に戦っています。結局2ヶ月間、大内群を足止めさせました。このことが、尼子攻略が失敗に終わった大きな要因だと言われています。

 なお、この時は城内の川をせき止め、町並みは湖水と化したと伝えられています。町民は大きな犠牲を強いられたわけです。

 ちなみに、この時も尼子に通じる各城は事前に寝返り、無血で富田城(尼子氏の居城)に攻め入っています。また、大内氏が敗走した後は、再び尼子氏へと寝返っています。

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以下は、再び飯南町教育委員会ホームページから引用させていただきました。



第1回目の戦火
〜山内氏との攻防〜


 戦国時代の中頃、中国地方では出雲国月山富田城(安来市広瀬町)に本拠を置く尼子氏と周防国山口(山口市)を中心に7ヶ国の守護を兼領する大内氏によって勢力が二分され、二者の間で覇権をめぐって一進一退の攻防が繰り返されていました。

 1540(天文9)年から尼子晴久は当時、大内氏の配下にあった毛利元就(安芸郡山城)を攻めましたが、これに失敗しました。

 尼子氏が一敗地にまみえると大内氏の富田城攻めがにわかに現実のものとなってきました。尼子氏が郡山城攻めに失敗し、富田城へ敗走してからちょうど一年後の1542(天文11)年正月、大内義隆は尼子氏の富田城を目指して山口を発しました。

 毛利元就をはじめ、石見・備後勢を合わせ、数万とも言われる大軍は石見国出羽の二つ山城に滞陣し、出雲国の入り口に位置する尼子方の堅城、瀬戸山城攻略の軍議を重ねていました。

 瀬戸山城に篭る赤穴氏には尼子氏の本城である富田城から田中三郎佐衛門率いる援軍が到着していました。城主の赤穴光清は城下を流れる神戸川を堰き止め、一帯を湖水化し、敵の侵攻に備えたと伝えられています。

 瀬戸山城攻めの幕は1542年(天文11)6月7日、大内方の熊谷直続によって切って落とされました。直続は、神戸川の堰を決壊させ、先功を立てようと手勢三百を引きつれ火を放ちながら城下に現れましたが、赤穴光清や田中三郎左衛門・吾郷大炊介により討ち取られました。

 大内軍四万に対し、瀬戸山城を守る赤穴光清の軍勢は、尼子氏からの加勢を含め二千だったと軍記物は伝えています。

 赤穴勢は、熊谷との合戦後も出羽助盛、本庄経光ら大内方の諸将の攻撃を受けますが、地の利を得た巧みな戦術と勇猛な戦いぶりによってことごとくこれを退けました。

 7月27日、ついに陶隆房、吉川興経らを中心とする大内勢の総攻撃がはじまりました。吾郷大炊介、松原采女らの奮戦によって、大内方を自陣に押し戻してその日の戦いは終わったかに思われましたが、城主赤穴光清が流れ矢に倒れ、長い戦いに終止符が打たれました。

 赤穴城を落とした大内・毛利軍は広瀬の月山富田城へ進軍し尼子氏を囲みますが、離反する者が増え、出雲国からの撤退を余儀なくされて尼子攻略は大失敗に終わります。

 大内・毛利軍の尼子攻略の緒戦で、2ヶ月近くの大軍を足止めさせた瀬戸山城の戦いは大内・毛利軍の遠征失敗の大きな要因になったことは間違いありません。

 さて、尼子・毛利の戦いを記録した書物に『雲陽軍実記』というものがありますが、1542年の瀬戸山城の合戦の頁に次のような部分があります。

 「然るに右京亮幸清(中略)鉄砲二十挺に弓を交え城の向かふ谷奥に伏せ置き(中略)味方難儀と見るとき、不意に横箭に入り、敵の跡より打っていでよ・・・」

 「(前略)向かう小谷口より伏勢弓鉄砲を揃え立て横矢にうち立て射立てする程に・・・」

 赤穴方が待機させていた弓矢・鉄砲隊により大内・毛利方が攻撃を受けた様子が見え、『雲陽軍事記』は出羽助盛の軍勢が負傷したと伝えています。

 1542年といえば、種子島への鉄砲伝来の一年前です。真偽の程はわかりませんが、ある研究者によれば、この戦いで使われた銃は石弾を使用する粗製な物ではあったかもしれないが、鉄砲が戦に使われたことが最初に確認できる戦いではないかとも言われています。

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以上は引用です。














あえて苦悩の中に飛び込んで


 そして、時は移り変わり、大内氏に取って代わって毛利氏となりました。

 先ほどの戦から20年後、今度は強大な勢力を誇る毛利氏が、再び出雲路へと攻め入ってきました。すでに富田城(尼子氏の居城)に通じる城は、ことごとく毛利氏に寝返っていました。

 こういう中にあって、冒頭前述(引用)のように、赤穴城内で軍議が開かれたわけです。@40年来の信義を貫き、討ち死に覚悟で戦い抜くのか、A無駄な戦を避け、無血開城するのか、……。

 この時、軍議の大勢はAに決する中、敢然として立ち上がったのが、森田左衛門と(祖先)烏田権兵衛です。城を飛び出して、毛利氏に恨みを持つ浪人や山賊など、約2千の兵ををかき集め、賀田城を根城にしながらゲリラ戦を展開したと伝えられています。

 「ごまめの歯ぎしり」ではありませんが、いったいどれほどの日数を持ちこたえたのでしょうか? 烏田権兵衛は討ち死にし、森田左衛門は敗走しています。

 この反乱により、(予想ですが、)赤来地域の民家・住民には、多大な迷惑・被害を与えたことと思います。こういう視点から見ると、この孤軍奮闘は「美談」として讃えるにはとまどいがあります。

 しかしながら、この両人の行動について、毛利元就は次のように語ったと伝えられています。

 「右京介は古今の義者、烏田、森田は伯夷・叔斉なり。この人傑、味方に属しては末頼もしき事なり」。

 武士の生き方としては、実に立派と言えます。これを褒め称えるようになったのは、案外「儒教」が日本に入ってきた江戸時代だったのかも知れません。

 いずれにしても、当時私自身が「烏田権兵衛」の立場に立たされていたらどうしただろう、と考えることがあります。地域住民のこと、家族のこと、自分の命など、そういうことを重視していたように思います。

 まして、自分の意見に同調したのは、森田左衛門ただ一人です。城を飛び出した後、兵力をかき集めないといけません。集めた武士に食わせないといけません。しかも、自らは戦死覚悟の上の決断です。そういう気の遠くなるような、血のにじむような苦悩を思うと、やはり「安きにつく」道を選んでしまうように思います。

 だからこそ祖先の選択に感動するし、尊敬もします。雲の上の人として、誇らしくも思います。

 小さいときから、父から幾度となく聞かされた「祖先の生き様」。まねは出来なくても、ものの見方、行動力に学ぶところは多々あります。

 私の部屋の片隅に「そのとき どう動く」(相田みつを)という言葉が掲示してあります。日々の生活の中で選択を迫られることが幾度となくやってきます。そういうとき、祖先の生き方をいつも指針の一つとしていることは確かです。

 先日、烏田権兵衛勝定の記念碑の掃除(除草作業)をしました。「義勇の士」の血筋を引く子孫の一人として、「義理」「人情」「公平無私」「滅私奉公」などの精神を大事にしていこうと、決意を新たにした私です。

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これをまとめながら
ふと脳裏に浮かんだことがあります。

思いがけず
降ってわいたように
世界中を恐怖に巻き込んでいる
新型コロナウイルス感染症。

3月と4月
2度にわたる臨時休校
やっと5月以降になって
マスコミに取り上げられるようになった
緊急事態宣言による
倒産・閉店・雇い止めなどなど
多大なる経済的な損失。

安倍首相が2月末
唐突に打ち出した
全国一斉臨時休校措置について
私は当初から
こういう施策に疑問を抱いています。

その根拠の一端は次の通りです。


◎ 日本人(他に東アジアの国々)は、欧米と比較して数十倍から百倍、感染者や死亡者が少ない。(例=100万人当たりの死亡者 日本 6人、ベルギー 773人、イギリス 501人、フランス 422人など) =世界の謎(BCG接種、風土病との関連など仮説あり)

◎ 日本におけるインフルエンザの発症者は、昨年の場合、約10,000,000万人。死亡者 約 10,000人。それに対して、新型コロナウイルス感染症は、感染者16,498人。死亡者 は867人(5/28現在)。([注釈]実際の感染者は、発表されている人数の数十倍とされている。)

◎ 新型コロナウイルス感染症は子どもは感染しにくいし、感染しても無症状か軽症で済む。死亡例はほとんどない。一方、インフルエンザの感染は、子どもが圧倒的に多い。

◎ 高齢の感染者がウイルスを多量に撒き散らすのに対して、子どもは逆のデータがある。

◎ (よって)学校がクラスター(集団感染)の場にはなりにくい。[政府専門家会議など]
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ところが
こういう話をすると
ほとんど例外なく
「とても理解出来ない考え方だ。」
と一蹴され続けてきています。
まさに孤立無援。

ただ
これまで2回の臨時休校は
子ども達にとってどんな意味があったのか?
不可避だったのか?
 今も自問自答し続けている私です。

それにつけても
2月〜4月末までの長期間にわたり連日
特にテレビメディアが繰り返し繰り返し
「新型ウイルス」の恐怖を煽り続け
視聴者の世論を形成するとともに
政治の方向性にも大きな影響を与えてきました。

今さらながら
「映像メディアの脅威」を
思い知らされている今日この頃です。

そして
ふと祖先の存在が脳裏を過ぎりました。
臨時休校に反対したり
二度にわたる緊急事態宣言に反対したり

世の中の大勢に
疑念を抱き続けている自分は
ほとんど世間からは
かけ離れた存在です。

せめて今後は
臨時休校にならないよう
若干のアクションも起こしている私です。
(実現叶いそうにありませんが……)

こういう自分が
レベルや質はぜんぜん違いますが
ふと
祖先とダブって見えたというわけです。



それにしても
緊急事態宣言を発して
首長や映像メディアが
休業を守らない店(人)に対して
排他的な言動をしたり

まして
自粛警察まで出現したり
……………………

悲しく情けない日本になってしまいました。




5月に入ってやっと
マスコミも恐怖をあおる一方の加熱報道が納まり
緊急事態宣言によって引き起こされた弊害
今後の展望などにも
話題がシフトしてきています。

感染症専門の方々は
今秋「第二派が到来する」と
一様に警告しています。
人口が密集していない飯南町も
ウイルスが入り
感染が広がる可能性は否定出来ません。

引き続き感染防止対策を心がけるとともに
一人一人が「免疫力を高める」べく
官民挙げて取り組みたいものです。