心あたたまる話
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2019。12.08(日)


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心ゆたかに生きる


 先日、福岡県 南蔵院住職;林覚乗さんの講演を聴きました。笑いあり涙あり、久々に心から感動した講演会でした。

 それというのも、実話を紹介するというスタイルの講演だったからです。その実話が、泣ける話ばかりです。実話紹介の所々で、人生のキーワードも紹介になりました。

不運であっても、不幸になってはいけない。

声にならない声、言葉にならない言葉を聴くべし。

お客様を区別なく扱うことが出来るか?

相手に求めてしまうから、不満が生まれる。

自分の願いだけを神頼みするんじゃない。

人間の豊かさを見る。

人のために生きる。

ご利益を求めるんじゃない。感謝する人間になる。

心豊かにご縁に感謝する。


 以下に4話、紹介します。

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強くなければ生きていけない



 広島の女子高生のA子さんは、生まれた後の小児麻痺が原因で足が悪くて、 平らなところでもドタンバタンと大きな音をたてて歩きます。

 この高校では毎年7月になると、プールの解禁日にあわせて、 クラス対抗リレー大会が開かれます。一クラスから男女2人ずつ4人の選手を出して、 一人が25メートル泳いで競争します。

 この高校は生徒の自主性を非常に尊重し、各クラスで選手を決めることになっていました。 A子さんのクラスでは男子二人、女子一人は決まったのですが、 残る女子一人がなかなか決まりません。

 早く帰りたくてしょうがないクラスのいじめっ子が、「A子はこの三年間体育祭にも出ていないし、水泳大会にも出ていない。 何もクラスのことをしていないじゃないか。三年の最後なんだから、A子に泳いでもらったらいいじゃないか」と、意地の悪いことをいいました。

 A子さんは誰かが味方してくれるだろうと思いました。が、女の子が言えば、自分が泳がされます。
男の子が言えば、いじめっ子のグループからいじめられることになります。誰も味方してくれませんでした。 ……結局そのまま泳げないA子ちゃんが選手に決まりました。

 家に帰りA子さんは、お母さんに泣きながら相談しました。ところが、いつもはやさしいお母さんですが、この日ばかりは違いました。

 「お前は、来年大学に行かずに就職するって言ってるけど、課長さんとか係長さんからお前ができない仕事を言われたら、その度にお母さんが『うちの子にこんな仕事をさせないでください』と言いに行くの?  そこまで言われたら、『いいわ、私、泳いでやる。言っとくけど、うちのクラスは今年は全校でビリよ』と、三年間で一回くらい言い返してきたらどうなの」と、ものすごい剣幕です。

 A子さんは、泣きながら二十五メートルを歩く決心をし、そのことをお母さんに告げようとしてびっくりしました。仏間でお母さんが髪を振り乱し、「A子を強い子にしてください」と、必死に仏壇に向って祈っていたのです。

 水泳大会の日、水中を歩くA子さんを見て、まわりから、わあわあと奇声や笑い声が聞こえてきます。すると、彼女がやっとプールの中ほどまで進んだその時でした。一人の男の人が、背広を着たままプールに飛び込みA子さんの横を一緒に歩き始めました。

 それは、この高校の校長先生だったのです。 「何分かかってもいい。先生が一緒に歩いてあげるから、ゴールまで歩きなさい。はずかしいことじゃない。自分の足で歩きなさい」。

 一瞬にして、奇声や笑い声は消え、みんなが声を出して彼女を応援しはじめました。長い時間をかけて、A子さんは25メートルを歩き終わりました。友達も先生もそして、あのいじめっ子グループもみんな泣いていました。

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 道徳教育、人権教育など、学校教育の中で基底をなす部分です。しかし、「ことば」で伝えれば「ことば」でしか理解し得ません。体験は心に響きます。心に痕跡を残します。ときに、人の生き方を変えることもあります。

 この高校の事例は、なんだか意外とどこにでもありそうな気がします。そのとき私自身は教師として在職時代(いや今も、保育所長として)言葉で指導してきていないか? それを厳しく自問自答させられました。

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心が通うということ



 ある病院に、頑固一徹で世をすねたようなお婆さん(患者)がいました。家族から疎まれていたせいでしょうか、看護師さんが優しくしようとしても、なかなか素直に聞いてくれません。

 「どうせ、すぐにあの世にいくんだから、……」と、かわいげのないことばかり口にします。困り果てた看護師さんが、機嫌のよいときを見計らって、「毎朝、病院の窓から見える、通勤の工員さんたちに、手を振ってごらんなさい。」と言いました。

 どういう風の吹き回しか、お婆さんは朝、ベットの上に身を起こし、言われる通りに手を振りました。中には、知らぬ顔をして通り過ぎる工員さんもいました。が、何人かは手を振って笑顔を返してきました。

 その反応が嬉しかったのか、お婆さんは毎朝、病院の近くに出勤する工員さんたちに手を振るのが日課になりました。工員さんたちの中にも、病院の前に差しかかるとき、窓を見上げる人が多くなってきました。「ばあちゃん、おはよう」。言葉はお互いに聞き取れなくても、心は十分に通い合います。

 まるで嘘のように、お婆さんの表情には笑顔が戻ってきました。看護師さんたちとも打ち解け、態度から「ケン」がなくなりました。しかし、逆に病気はだんだん重くなっていきました。それでも、お婆さんは朝を迎えると、必死で手を振ろうとします。まるで生きてる証でもあるかのように、日課を続けることは止めようとしませんでした。

 お婆さんは、亡くなりました。工員さんたちは訃報を聞き、その鉄工所に勤める工員さんたちみんな揃って、病院の近くに集まりました。そして、お婆さんが毎朝手を振ってくれた窓辺に向かい、深々と黙祷を捧げたそうです。

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 「心が通う」ということは、何と人生を豊かにすることかと思います。学校が楽しい、職場が楽しいというのは、その根本は「人間関係」ではないかと、私は思っています。

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負けたチームの校歌を歌えばいい



 大阪の藤井寺に住んでいる、原田さんというお母さんの話です。息子さんは、高校三年生。阪南大高校の野球部に入り、レギュラーを目指して頑張ってきました。

 大阪府予選を目の前にした土曜日、いつもは遅くとも9時までには必ず練習を終えて、汗びっしょりになって帰ってくるのに、10時半を過ぎても戻ってきません。友だちの家に電話をしてみましたが、レギュラーのその子は、8時半過ぎに帰ってきたといいます。思いあまって、今度は警察に連絡してみました。が、「今のところ、事故の連絡は入っていません」とのこと。

 そうこうするうちに、連絡が入りました。主人が笑顔でこう言うのです。「三年生でレギュラーになれんかった部員だけ残って、引退試合があったんやて。相手は、やっぱりレギュラーになれんかった、よその学校の部員や」。

 レギュラーにはなれなかったけど、同じように3年間苦しい練習に耐えて今日を迎えています。補欠にもなれないその子たちの、せめてもの晴れ舞台だったのです。

 その引退試合は負けたものの(補欠の補欠の)、12人は「焼肉を食べにいこう」ということになったのです。一人前千円の食べ放題の店。あっという間に時間が経ち、気がついて慌てて家に電話をしたということだったのです。 ……こんな心にくい演出をしてくれた監督さんも、素晴らしい。

 この間、川上哲治さんとゴルフをする機会がありました。川上さんは、こう言いました。「甲子園で勝った方の学校の校歌を歌う必要はない。負けた方の学校の校歌を歌えばいい。そうすれば、決勝戦までに、全ての学校の校歌が野球場に流れます」。

 負けた方をホームベースに立たせて、勝った方はまた試合ができるのだから、ベンチの前で拍手をして送ってやる。これが本当の強さであり、優しさではないかと思うのです。

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 川上さんの発想は素晴らしいと思います。決勝戦では2つの学校の校歌を歌えばいいのです。

 勝っておごらず、負けて悔やまず。 ……難しい心ばせかも知れませんが、私はこの精神が好きです。そうありたいと、ずっと思い続けて今日に至っています。

 女子バレーの部活動を長年担当してきて、数え切れないドラマが心に残っています。落ち着いて思い起こせば、ここに紹介しているような実話がいくつか浮かんできます……。

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これが終戦直後の出来事



 戦後間もない頃、日本人の女子学生A子さんがアメリカのニューヨークに留学しました。戦争直後の、日本が負けたばかりの頃のことです、人種差別やいじめにもあいました。

 A子さんは、とうとう栄養失調になってしまいました。体にも異変を感じ、病院に行ったところ、重傷の肺結核だと言われました。戦後まもないころは、肺結核は死の病と言われていました。

 思い余って、医者にどうしたらいいか聞いたところ、「モンロビアに行きなさい。そこには素晴らしい設備を持ったサナトリウム(療養所)があるから」と、アドバイスがありました。

 飛行機がまだ発達していない時代のことです。ロサンゼルス近郊のモンロビアは、ニューヨークから特急列車で5日間もかかる距離です。当時、汽車賃さえない彼女は、恥ずかしい思いをして、知人や留学生仲間に頼み込み、カンパしてもらって列車のお金を集めました。しかし、食料までは手が回らず、3日分を集めるのがやっとでした。

 治療費は、日本にいる両親が「家や田畑を売り払ってもなんとかするから」という言葉を証明書代わりに、列車に乗りこんだA子さんです。列車では、発熱と嘔吐が続き、満足に食事もできませんでした。それでも3日目には、とうとう食料がつきてしまいました。

 A子さんは、なけなしの最後に残ったお金を出し、車掌にジュースを頼みました。ジュースを持ってきた車掌は、彼女の顔をのぞきこみ、「あなたは重病ですね。」と言いました。彼女は、「結核に罹ってしまい、モンロビアまで行く途中ですが。そこまで行けば、もしかしたら助かるかもしれない」と、正直に話しました。車掌は、「ジュースを飲んで元気になりなさい。きっと助かります。」と、やさしい言葉をかけてくれました。

 翌朝、車掌が「これは私からのプレゼントだ。飲んで食べて、早く元気になりなさい。」と言って、ジュースとサンドイッチを持ってきてくれた。

 4日目の夕方、突然車内に放送が流れた。「乗客の皆さま、この列車には日本人の女子留学生が乗っています。彼女は重病です。ワシントンの鉄道省に電報を打ち、検討してもらった結果、この列車をモンロビアで臨時停車させることになりました。朝一番に停まるのは、終着駅のロサンゼルスではありません」。 ……これは、現在で言えば新幹線を臨時停車させるくらい大変なことです。

 次の日の夜明け前、列車はモンロビアに臨時停車しました。A子さんは、他の乗客に気づかれないように、静かに駅に降り立ちました。すると、そこには車椅子を持った看護師さんが数人、待機していてくれたのです。

 車椅子に乗せてもらうと、列車がざわざわしているので、A子さんは振り返ってみてびっくりしました。一等、二等はもとより、全ての列車の窓と言う窓が開き、アメリカ人の乗客が身を乗り出して口々に何か言っています。

 最初は、日本人である自分に何か嫌なことを言っているのかと思いました。が、そうではありません。名刺や、住所や電話番号を書いた紙切れなどに、ドル紙幣をはさんだものが、まるで紙吹雪のように、飛んでくるのです。

 「きっと助かるから、安心しなさい。」、「人の声が聞きたくなったら、私のところに電話をかけてきなさい。」、「手紙を書きなさい。寂しかったら、いつでもいいよ。」、……。口々に声をかけてくれました。彼女は、4〜5メートル先に停まっているはずの列車が、涙で見えなくなりました。

 A子さんは3年間入院しました。その間、毎週のように見知らぬアメリカ人が見舞いに来てくれました。すべて列車の乗客でした。

 3年間の膨大な手術費と治療費を払って、A子さんは退院しようとして驚きました。匿名で治療費の全額が払われていたのです。これも、列車の乗客の中の一人だったのです。

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 終戦前後はとりわけ、アメリカ人にとって日本人は、理解しがたい野蛮人。そういう環境にあって、ヒューマニズム溢れるこのエピソードは、私の心をとらえました。

 「朱に交われば赤くなる」と言います。「環境が人を作る」とも言います。学級集団づくり、それを束ねる学校集団づくり、……まさに教師は、その旗振り役です。その重要性を再認識させられるエピソードでした。

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講演会をはじめとしてスピーチは
理屈を伝えるのではなく
林覚乗さんのように
具体的にイメージできるエピソード
とっておきの話こそ
人の心をふるわせるとともに
人の心に残り
人の心を変える原動力になる。
そういうことを
再認識させられる講演会でした。